占部観順

占部観順師について

快楽院占部観順師は文政七年 (1824年) 二月二日、当院真宗大谷派了願寺の長男として生まれました (父観道)。幼少から学問を好み、廣瀬旭荘の門に入って漢籍を学びました。その後も年を経るごと学への欲求が旺盛で、勉強道具を携え京都に趣き、宗学の研鑽を積んだと伝えられています。後に西尾の唯法寺にご養子として1入寺されました (観誠から観順に改名)。占部観順師は西尾に私塾破塵館を開いて教学の研鑽練磨と布教伝播に努め、大谷大学の前身である真宗大学の初代学監としてご就任されるなど (真宗大学は後 1901 年東京巣鴨に移転開校し、学監に清沢満之が就任)、当代一流の学者としてご活躍なされました。

事実上の大谷大学の初代学長をお務めになられたのですが、晩年には異安心調理事件 (信順派と請求派との論争) をめぐって教団を追われる事にもなりました。信順派とは、蓮如の『御文』の「タスケタマヘ」の文を勅命に信 (まか) せ順 (したが) うことであると解釈する人々で、一方の請求派とは、「タスケタマヘ」を仏体に向かって「助けて下され」と請い求めることであると解釈する人々です。観順師はこの論争において前者の信順義の立場を取り、大学寮安居講師として講壇に上り (明治三十一年)、公の場で信順派の教義を誹ることを批判しました。教団内の指導的立場にあったこともあり、当時の教団の請求派支持の知識層から反感を買い、非難はいたずらに広がり衆口金をも鑠 (と) かし、ついには翌三十二年七月二十五日、嗣講の職を奪われ、大谷派破門にまで追いやられました。

さらにひどいことに、当代の住職公順師の嫡孫にあたる傑師もまた罪に問われ重罪に処せられることにもなりました。この状況を見ていた興正寺派の管長猊下 (げいか) は、親しく師の所説について問い聞き、師の熱烈な信仰と広い学識に感動し、一派最高の学位である勧学の職を授けました。このときに興正寺に帰して一乗寺の第一世住職となりました。興正寺派となっても信順派正意の主張を一貫し、それを倦むことはありませんでした。

その後も一乗寺にて自信教人信の誠を尽くし、明治四十三年一月十九日正午十二時、八十七歳のご生涯をお念仏の内に静かに閉じられました。

後に大谷派においても信順派が正義と認められ、唯法寺は大谷派に復帰し、昭和十二年、観順師には講師の号が贈られることとなり、観順師の信順派教義の妥当性が正式に証明されることとなりました。

了願寺に残される占部観順師直筆の書です。西尾唯法寺に入寺されてからも幾度か中島の地に立ち寄られました。

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師が西尾に開かれた私塾破塵館の印が見えます。

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書かれている字は『無量寿経』(真宗聖典, p. 78) からの引用で以下の通りです。

天下和順、日月清明、風雨以時、災厲不起。 国豊民安、兵戈無用。崇徳興仁、務修礼譲。

徳川家康の九代祖の「松平親氏公の願文」に使用されていることもで知られる有名な一節です。書き下し文は以下のようになります。

天下和順し、日月清明にして、風雨時をもってし、災厲起こらず。国豊かに民安し。兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す。

意味はおおよそ次のように取れるでしょう。

〔阿弥陀の光明が行き届いた国では〕天下が穏やかに治まり、太陽も月も清く明るい。風や雨もふさわしい時に起こり、天災や疫病も起こらない。国は豊かになり人民は平安で、軍隊や武器は必要なくなる。徳ある人は尊敬され、友情はふるい起こされ、礼儀は守られる。

略歴

  • 1824 (文政7) : 2月2日, 摂津国西成郡中島村了願寺長子として生まれる。
  • 1845 (弘化2) : 広瀬旭荘 (大坂, 摂津池田) の塾に学ぶ。のち高倉学寮入寮。
  • 1847 (弘化4) : 西尾唯法寺に養子として入寺。
  • 1853 (寛永6) : 2月, 本法院一蓮院より調理を受ける; 4月, 西尾に破塵館創設。
  • 1862 (文久2) : 安心件につき誓約書を交わす。
  • 1871 (明治4) : 3月, 三河菊間藩事件で台嶺の助命に本葬する。
  • 1874 (明治7) : 真宗局教授就任 (宗教科担当)。
  • 1876 (明治9) : この頃三河国真宗取締・三等学師
  • 1877 (明治10): 6月, 専門教師教校教授就任。
  • 1880 (明治13): 12月, 雲英晃燿との論争始まる。
  • 1881 (明治14): 5月7日, 二等学師就任; 10月10日, 野々村・村上専精より貫練社へ観順説につき質疑。
  • 1882 (明治15): 本山大寝殿にて対論。
  • 1883 (明治16): 10月, 三河三ヶ寺並浜二ヶ寺安心筋建言書提出; 11月, 雲英との間に和解。
  • 1885 (明治21): 3月2日, 一等学師; 12月, 大学寮勤務。
  • 1891 (明治24): 7月4日, 嗣講就任。
  • 1892 (明治25): 安居で『観念法門』を講ず。
  • 1895 (明治28): 安居で『散善義』を講ず。
  • 1897 (明治30): 4月6日, 真宗大学学監就任; 7月29日, 嗣講休職・学監解職。
  • 1899 (明治32): 3月, 嗣講免職; 6月30日, 擯斥処分; 9月, 四恩会結成; 9月16日, 興正寺派より特補勧学の辞令発布。
  • 1910 (明治43): 1月19日, 逝去 (享年87歳)。

参考

  • 香川晃月(編纂)『快楽院語録』, 興教書院, 1910.
  • 畑辺初代「占部観順異安心調理事件」, 大谷大学大学院研究紀要 5, 1988 (INBUDS DB).
  • 唯法寺 歴史

Footnotes:

1

「ご養子として」:この箇所は長らく「占部公順師のご養子として」と書かれていましたが、「公順」は観順の嗣子(跡継ぎ)です。長らく誤った記述を掲載してしまい申し訳ございません。三重教区眞養寺ご住職のご指摘により、誤りに気が付きました。記してお礼申し上げます (令和3年8月2日 了願寺住職追記する)。

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