令和七年 謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。今年も新しい年を迎えることができました。

思えば、昨年は元日の能登半島の地震からはじまった一年でした。本年も、1日の夕方には、やはり一年前のことが思い出され、なにかそわそわした瞬間を過ごしました。

お寺では元日の午前11時から修正会のお勤めが本堂でありました。毎年参詣者はそれほど多くはないのですが、私たちの家族とわきあいあいと正信偈をお勤めしました。その後、本堂には、ぽつぽつと本堂へのお参りの方々が訪れ、いくつかのご家族とは、簡単なおつまみと少しのお酒を飲み交わしました。現在、このブログを更新しているのは1月3日の午後ですが、住職は本堂にてご参詣者をお待ちしつつ、この文章を書いています。お天気にも恵まれ、のどかな年明けを迎えています。

昨年一年間を振り返えると、私の印象に残ったことは、多くの方々にとってもそうであると思うのですが、情報の在り方がいよいよ変化したなということを非常に強く感じた一年だったように思います。東京都知事、兵庫県知事、アメリカ大統領選挙などの選挙報道をはじめ、日々更新されるニュースが、従来の新聞・メディアから、インターネットを介したSNS中心の情報へと、いよいよ移行したということを、強く感じたのです。もちろん、ここ数年その傾向はあったのですが、特に昨年はそのように感じる機会が多かったように思います。今年もまた、この傾向はどんどんと進行していくのだろうと思います。

そうして、情報媒体がネット中心になるにつれ、様々なニュースが即座に大量に詳細に手元に届く一方で、情報を受け取る側が、そられの情報の真僞を定めることがいよいよ困難になるのだなあということも、あたらめて強く感じました。情報量が多くなるにつれ、私たちはどの情報が真実か見分けることができなくなるのです。こうしたことは、ここまでSNSが発展するまで、少なくとも私自身はあまり深く考えることすらありませんでした。単純に、情報量が増えれば、それだけより真実に近づきやすくなるというくらいに考えていたところがありました。事実は、その逆でした。情報のネットワーク網が広がるにつれ、私たちはより混乱するのです。そうなってみれば、当然そうだという気もするのですが、ともかくそうしたことも、強く感じた一年でした。

こうしたあらゆる情報に簡単にアクセスできるかに思える時代にあって、私たちが真に物事の真僞を見定めるには、いったいどうしたらよいか。少なくとも、私たちが本当に知りたいことは、簡単にはアクセスできない、ということを常に念頭に置いておくことは必要かもしれません。今年は私自身とこうした情報の関係を、少し見直してみようと感じている年始のいっときです。

それでは、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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