昨年 2013/09/18 に開催された毎田仏教センター所長の羽田信生先生による、臘扇忌法要の記念講演「十二月の扇 (臘扇) —無用なる我の発見—」の文字起こしを行いました。私はその場で講演を聞いていたのですが、やはりもう一度じっくり音声を聞き直すと、より深く先生の講演内容を味合うことができたように思います。
衆善爲難 —藤元正樹先生の書についての覚書—
私は幸運なことに、伯父に真宗の世界ではたいへん有名な藤元正樹先生がいます。先生は学問だけでなく、書や絵など芸術の方面にもたいへん通じておられたそうです。自坊にも先生のお書きになったものがいくつか残っているのですが、先日ふと座敷に置いてあった先生の書の一つが目に入りました。お恥ずかしながら、いくつか崩し字が読めなかったので以下の様なツイートをしてみました。
岩波仏教辞典の初版と第二版の電子辞書についての覚書
ヤフオクで岩波仏教辞典の電子ブック版が出ていたので購入してみました。今CD-ROM版として手に入るものは 岩波 仏教辞典第二版 の電子データです。もちろん第二版は初版をもとにしているので、第二版のCD-ROMのデータがあれば初版のものは必要ないのですが、どの程度の記述の違いがあるのか少し興味があったので購入してみました。
年始に思うこと
2014年、年始に思うこと。
気取っていると思われることを恐れず書くと、人間なんて惨めなものだと思う。いつも何かに取り憑かれて、頭のなかがそれだけになって、そのことに気づきもしないなんて、こうやって冷静に見てみると、なんて滑稽なことなのだろう。怒りたくもないのに怒り、悲しみたくもないのに悲しむ。ほんの一時の楽しみに我を忘れることはできても、またいずれ必ず苦しみがやって来る。
仏教徒のための Bodhi Linux 入門?!
日本人の大多数である仏教徒たる私たちが、幾多存在する Linux ディストリビューションの中からひとつ選択するという希有な状況に出会った時、まずもって選ばれるべきものをいみじくもひとつ挙げるとするならば、それは Bodhi Linux ということになるでしょう。 “Bodhi” とはご承知のように梵語で「悟り」を意味し、そのウインドウマネージャーは “Bodhi” の英語訳にもあてられる「悟り」を意味する Enlightenment です。また、このディストリが理念として掲げる「ミニマリズム」(Minimalism) は、欲するところ少なく足ることを知る(「少欲知足」)仏教徒たる私たちの理念にも通づるものがあるでしょう…
「ひとえに他力」ということ
『歎異抄』第八章では念仏は「非行非善」であると定義され、「ひとえに他力」なものと説明されます。
念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々。
悪人正機の喩え話
悪人正機説とは『歎異抄』第三章に見られる「善人なおもて往生をとく、いわんや悪人をや」という有名な一節に代表される教説です。「善人ですら往生できるのだから、悪人は往生できないはずがない」という、一般的に考えられる論理とは反対の内容を持ち、はじめてこの文章に触れる人に強烈なインパクトを与えます。
自分の考えとは何か
歎異抄という浄土真宗の思想を代表する有名な書物に関して、この書物が親鸞自身の著作でないということは注意すべきである、という指摘はしばしば聞かれます。もちろん、これが親鸞の直接の語であることは疑いようもない事実ですが、その言葉は同時に、歎異抄の著者唯円というフィルターを通した言葉である、ということを忘れてはいけない、という指摘です。
iPad でサンスクリット文字を入力したい
iPad や iPhone でサンスクリット文字を入力したいことがあります。ここではデーヴァナーガリー文字ではなく、ローマナイズされた IAST (International Alphabet of Sanskrit Transliteration) と言われる転写方法で用いられるダイアクリティカルマーク付き文字を入力する方法を紹介してみます。
犯罪者や仏教を批判する人は念仏で救われるか?
浄土真宗では、一切の人々は念仏によって救われると教えられます。なぜならば、正依の経典である『大無量寿経』に説かれている本願は、罪が深く欲望の強い人たちをも含みすべて救済しようとする願いだから、とされます。そこで説かれる四十八願の中でも特に重要視されるのが第十八願で、それは次のようなものです。