末の雫、本の露よりも繁し

今日は終日雨で、夜になって風が強く吹いています。私は今日は法務も少なく、一日のんびり過ごしました。昼寝して、曇り空の庭に出て、もうすぐ散ってしまう桃色の梅の花を眺め、今まさに花を咲かせようとしている紅の沈丁花の蕾を愛でて、もうすぐそこに春近しと、しみじみととても良い一日を過ごしました。

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予知夢のお話

仏教では、幽霊や死者の魂、あるいはそれらが娑婆世界の人間へもたらす怪奇現象や予知夢といったものについては、管見の限りでは具体的な教義上の説明を持ちません。例えば、「魂は死後に存在するか否か」という問に、仏陀が「ある」とも「ない」とも答えない所謂「無記」の態度を示した、という話はとても有名です。しかし、我々僧侶は亡くなった方々の命日のお勤めを日々の法務としていますので、我々が衣を着てお宅へおじゃますると、一般の方々はやはり我々の存在を、こういった幽霊や魂の存在と密接に関る存在として捉えられる、ということは十分に理解できることです。

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衆善爲難 —藤元正樹先生の書についての覚書—

私は幸運なことに、伯父に真宗の世界ではたいへん有名な藤元正樹先生がいます。先生は学問だけでなく、書や絵など芸術の方面にもたいへん通じておられたそうです。自坊にも先生のお書きになったものがいくつか残っているのですが、先日ふと座敷に置いてあった先生の書の一つが目に入りました。お恥ずかしながら、いくつか崩し字が読めなかったので以下の様なツイートをしてみました。

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年始に思うこと

2014年、年始に思うこと。

気取っていると思われることを恐れず書くと、人間なんて惨めなものだと思う。いつも何かに取り憑かれて、頭のなかがそれだけになって、そのことに気づきもしないなんて、こうやって冷静に見てみると、なんて滑稽なことなのだろう。怒りたくもないのに怒り、悲しみたくもないのに悲しむ。ほんの一時の楽しみに我を忘れることはできても、またいずれ必ず苦しみがやって来る。

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怠け者と山桜桃

現在、寺の庫裏の改修工事が行われていて、普段洗濯に使っていた中庭のスペースへの通路が狭められて、行き来が不便になっています。加えて、中庭には工具や木材が乱雑に置かれていたりもします。その狭い通路を通って、布団を干しに、抱え持っていくのが面倒で、しばらくサボっていました。今日はお天気もよく、日曜日で工事もお休みで、重い腰を上げて、その細い通路を布団を抱えて通って中庭へ出てみました。

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金環日食と時々木漏れ日

私は昔に一度、アフリカで皆既日食を見たことがあります。ザンビアの首都ルサカ郊外で、2001年の6月、21世紀最初の皆既日食でした。もう随分前になりますが、現場の雰囲気やその時の感情は今でも記憶に新しく、特に太陽が完全に隠れてしまった直後、太陽の光が一箇所だけ漏れ出る瞬間のダイヤモンドリングの光景は、強烈なインパクトがありました。そこからさらに、太陽が復活してくるにつれ、徐々に言い得ない活力が身体の奧から沸き上がってきました。現地のアフリカの女性たちが手を組んで円になって回りながらザンビア国歌 Nkosi Sikelel’ iAfrika を合唱しはじめました。「コシシケレリアフリカ」。復活した太陽の光が、彼女たちのリズミカルに動く影を、アフリカの大地に映しだしました。彼女たちは「ハレルヤ、ハレルヤ」と歌い続けました。金色の大きなキャンバスに、黒い影が楕円を描き、踊っていました。

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雲の上の目

私はお寺に務めているが、もともと超常的な現象については懐疑的で、お化けや幽霊、UFOなんかにはあまり関心がない。また、運命や赤い糸といった考えも信じたことがない。無論、そういった現象に出くわしたこともない。しかし今日、どうも少し腑に落ちないような不思議な体験をしたのでここに残しておこうと思う。

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