私における清沢満之師 —自由にして自在なる人—

2017年6月6日に行われた真宗大谷派大阪教区の有志の会である難度会主催の臘扇忌法要では、佛教大学非常勤講師の樋口章信先生をお招きして、「私における清沢満之師 —自由にして自在なる人—」と題された記念法話が行われました。

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若い頃ハワイ開教師としてお勤めになられた樋口先生自身の現在に至る歩みから、清沢満之と英語教育について、テーマともなっていた「自由」について、そして、清沢満之の信念についてと、かなり広範囲にわたるお話をいただき、講義中は英語と日本語が入り混じり、聴講者は講義中はそのお話の内容についていくのが少し大変だったようにも感じられました。しかし、あらためて講義テープを聴き直すと、樋口先生自身の体験と研究に基づく清沢満之像が非常に明瞭に述べられており、樋口先生ご自身の「具体的生活と信心が別物であるのならば、そうした空虚な信心については信用できない」というお考えが、樋口先生ご自身の体験や「生き方全体が信心である」と述べられた清沢満之の生き様や著作などから、多方面よりアプローチされていることに気付かされました。

清沢満之の自己をごまかさずに「奮闘努力」する姿勢に関連して、「正しい知による習慣」と「間違った知による習慣」の重要性が述べられた場面は、私にとってとりわけ印象に深く残りました。「正しい知」(right knowledge) というものは「諸矛盾を自覚した無限の知覚」であり、それはすなわち「如来のありがたさが分かること」で、その逆が「間違った知」(wrong knowledge) であると述べられました。この「正しい知」の集積が「原石」(original gem) を磨く作業となり、真の教育を受けて人が成長していくプロセスとなり、正しい習慣というものがそこに開けてくると述べられました。

「正・誤」の判断というものはいったい何を基準になされるものであるのかということは、非常に重要で根源的なテーマでもありますが、それを如来への報恩謝徳の念の有無に定められるところに、清沢先生の真宗者たる顔ばせが窺えます。講義中直接言及されたわけではありませんが、私は次の法然上人の有名な『和語燈録』の一節が想起されました。

ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし… 衣食住の三は念仏の助業也。これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業也… もし念仏の助業とおもはずして、身を貪求するは三悪道の業となる。往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。万事かくのごとし。

真宗門徒として日常生活を送るにあたり、最も根本的にいったいいかに立つべきかについて、私自身最近迷い、考えさせられる場面が多く、今回の講演の「正しい知による習慣」ということと、この法然上人の「何事もみな念仏の助業也」という言葉が、私にあらためて深く響いたのでした。

臘扇忌法要の記念法話は、毎年文字起こしを行って、次の年の法要時に記念品としてお配りしています。昨年より印刷業者に製本を依頼して、余った分は難波別院や難度会を通して販売することなりました (一部100円)。収益は (非常に微々たるものですが^^;) 法要主催の難度会の運営費に充てられています。

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[昨年の加来先生の講義録]

本年平成30年の臘扇忌法要は7月23日に大谷大学教授の一楽真先生をお迎えして行われます。参加費1,000円で、記念品として昨年の樋口先生の講義録も含まれます。余った分は一部100円で販売する予定です。安価で内容もかなり濃いものですので、なるべくご購入いただきたのですが、法話を聞き逃した方は、講義録のドラフトを以下に PDF で公開しますので、ご興味ある方はご自由にどうぞ^^

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