「天命に安んじて人事を尽くす」—清沢満之の求道における根本問題としての自己と他者—

昨年 2016/06/03 に開催された大谷大学教授の加来雄之先生による、臘扇忌法要の記念講演の文字起こしを行いました。一昨年の大阪教区臘扇忌法要は、例年と異なって、愛知県の西方寺ご住職清沢聡之師をお招きし、臘扇忌主催の難度会メンバーとのシンポジウム形式で、それぞれの課題を共有するという形を取ったので、その年は講義録を作成しませんでした。ですので、こうしてご講師の先生の記念講義の文字起こしの作業をするのも、2014年の長谷正當先生のご講義(「本願の信と自信 —自己を証しすること—」) 以来 2 年ぶりということになります。

今回の加来先生の講義の元となったのは、2012年の岡崎教区第14組の夏期真宗講座にて講義された内容でした。

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この本は今回の臘扇忌の記念品として聴講者の方々へお渡ししたものですが、清沢満之記念館 でもお求めいただけます。

講義の大筋は、この岡崎教区でのご講義に沿ったものでしたが、今回の講義では異なった資料や実例も多く紹介され、基調は同じでも、少し異なったアプローチで「天命に安んじて人事を尽くす」という内容が講義されたように思います。副題には「自己と他者」とあるように、清沢先生の求道の根本問題としての「自己とは何ぞや」という問いには、一見見落とされがちであるのですが、あくまでも「他者」や「社会」との関わりの中での「自己」が問題とされている、という点がまずは強調され確認されました。この「自己と他者」という問題を押さえた上で、その問題と深く関わる「天命に安んじて人事を尽くす」という本題について詳しく論じられました。

詳しくは出来上がった小冊子をご参照いただければと思うのですが、結論部分で述べられていることが非常に感銘深く、ここに引用しておこうと思います。

生命は限りなく深い。生命は限りなく深いが、それを受け止める私たちの心は有限です。生命終わる最後の瞬間まで、私たちの道はどこまでも深まっていく。大きな海に触れたように、どれだけ汲んでも汲んでも汲み尽くせないものに触れた。しかし、それは足りないという意味ではない。触れているものは無限なものに触れている。こういう安心感です。そういう安心感があってはじめて、私たちはどんなささやかな営みの中にも、無限の意味を見出すことができる。私たちがやっていることは小さいことかもしれません。でもその小さいことの中に、法藏菩薩の五劫思惟の歩みを仰いでいくことができる。これほどありがたいことはない。その事実を「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉で教えられているのではないかなと思います。

今回は出来上がった講義録を、今年の臘扇忌の記念品としてお渡しするとともに、難波別院でも販売できる形に仕上げることを予定していますが、ひとまずドラフトの形をここに置いてみたいと思います。講義を聴き逃した方は以下からご確認いただけます。

参考

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