「黒ぶちメガネと偏頭痛とウディ・アレン」。なかなか、興味をそそれられるようなタイトルをつけてみたが、たぶん、あまり内容のあることは書けないと思う。しばらく日記を書いてなかったので書こうと思い立ったというだけで、この3つの言葉は、つながっているかもしれないし、まったく関係がないかもしれない。とにかく、最近の出来事としてこの3つのことについて。
黒ぶちメガネ
先日、気に入った黒ぶちのメガネフレームが見つかったので購入した。フレームのみ購入して、レンズはチェーン展開している地元のメガネ屋で交換してもらうことに。私は年に一度くらいの頻度でフレームを交換したくなり、ここ数年はレンズのみ同じ店で交換している。そのほうが値段も安くてすみ、お店に自分の視力のデータも残っているから。メガネ屋に来店すると、はじめて見る20代前半であろう誠実で気の弱そうな若者が、精一杯の笑顔で対応してくれた。彼は私からフレームを受け取ると、次のように言った。
「交換の際にフレームが破損する場合がありますが、その際は当店は一切責任は負いかねますのでご了承いただけますか?」
私は思わず、彼の顔を見直した。彼の説明はもっともな話だけれども、ずいぶん直接的な表現だ。今までも同じような確認はあったはずだがな。しかし、もうすこしオブラートにつつんで話せないものか。そんなことを考えながら、私は同意書にサインして、要求された金額を支払った。
一週間ほどして、店員の彼からレンズ交換が終了した旨のビジネス・ユーズな声が留守番電話に入っていた。再び来店してメガネを受けとる際に、彼は開口一番、満面の接客用の笑顔で私にこういった。
「よかったですね、何事もなくて。フレームは無事で、レンズが入りましたよ!」
彼には悪気はないことは理解できた。しかし、私はこの後数時間、嫌な気持ちが取れなかった。
偏頭痛
私は思春期からひどい偏頭痛持ちで、医者に掛かることはもちろん、針やマッサージ、禁煙・断酒、食事改善やジム通い、はてはヨガや太極拳、座禅や瞑想まで、このひどい頭痛が改善されることを望んで色々試してみた。それくらい私はこの頭痛が嫌だった。もちろん、それらは頭痛のためだけにはじめた、というわけではないけれども、頭の片隅ではどこかでこの「悪病」が永遠に退散することをかすかに望んでいた。それらのうちのいくつかは幾分効果があったかもしれないが、とにかく起こるときは起こる。これが来ると、生産的なことが一切できなくなる。しかも、私の場合一旦始まると、痛みの強さの差こそあれ、数日間は継続する。基本的には、鎮痛剤を飲んで、光や騒音の多い外出を避け、うす暗い室内でひたすら去るのを待つだけだった。
もちろん、なんらか原因はある。例えば、睡眠不足や疲労、精神的ストレスや長時間のデスクワーク、あるいは乱視の入った「メガネレンズの交換」なんかも原因になるかもしれない… 私は激痛の中、先日新調したすこしかけ心地の異なる「黒ぶちメガネ」を以前使用していたものに戻して、飲み会やあまり重要でない予定にキャンセルの連絡をした。頭痛が去るまでの数日間、私は最低限の仕事だけこなして、棚からまだ読んでない本と適当なDVDとLPをいくらか引き出して机の上に積み上げて、家にこもってひたすら回復を待った…
ウディ・アレン
こうした非生産的で陰鬱な数日間、私はウディ・アレンのDVDや動画をいくつか観た。もしかしたら、「黒ぶちメガネ」で彼を思い出した、という単純な理由なのかもしれないが、とにかくお酒と外出なしに陽気な気分にさせてくれるものが必要だった。私は彼の古い映画は大好きだったけれども、ここ数年はほとんど彼の作品からは遠ざかっていた。2000年後半の作品で映画館で観たのは、2008年の『それでも恋するバルセロナ』 だけだった。
最初に Amazon の動画で『ミッドナイト・イン・パリ』 (2011) をたまたま観たのがきっかけ。すばらしく愉快な映画だった。痛みがひどくレンタル店に行くことも億劫であったので、ネットなど部屋に居るままで観られるものを、その後立て続けに見た。『マジック・イン・ムーンライト』 (2014)・『ジゴロ・イン・ニューヨーク』 (2013, 出演)・『ブルージャスミン』 (2013)・『ローマでアモーレ』 (2012)・『恋のロンドン狂騒曲』 (2010)・『マッチポイント』 (2005) など、ここ10年ほどのまだ観ていない作品を中心に。その後、『アニー・ホール』 (1977) や『マンハッタン』 (1979)、『ウディ・アレンの影と霧』 (1991) や『ブロードウェイと銃弾』 (1994) など、好きな名作も見直した。夕方から寝るまでの間、一日2−3本のペースで観続けた。相変わらず頭の痛みはひどかったけれども、良質の作品のお陰で幾分憂鬱な気分は取り除かれた。こんな生活なので身体自体の疲労感はなくとも、朝はとにかく早い時間に起きなければいけないので、眠気が来ない日は安定剤と眠剤で眠りについた。
ウディ・アレンの作品には必ず男と女が出てきてロマンチックでエモーショナルでそしてもちろんコミカルな恋愛劇を展開し、愛すべき登場人物たちは終始マシンガンのようなおしゃべりを放ち続ける。いっときも画面から目が離せない。中にはシリアスなドラマが展開することがあるが、その場合もその陰鬱な重さをシニカルに吹き飛ばすような、沸々と湧き上がってくるような滑稽さが根底に流れている。それはまるで、人生が提供する苦難がそれを経験する当人にとってどれほどシリアスであろうとも、第三者的な視点では笑い飛ばすべき喜劇にすぎないのだよ、と達観されているかのようだった。
私はこうしてこの一週間をやり過ごした。スクリーンの中で、あまりにも集中的に、たくさんの老若男女がドラマチックな人生劇を展開してくれたので、私は、私がいまこうしてソファーに身を落としてじっとしている間に、一体どれほどの地球上の人たちが、彼の映画の中でのように、複雑に絡み合ってドラマを展開しているのだろうか、ということに思いを馳せた。その想像は私を言いようのない活力的な気分にさせてくれた。そして事実、その想像はその通りに違いないのだ。少し大げさだけど、この世界は、今のこの瞬間も、かつても、これからも、なんて活力的で生命力に満ちあふれているんだ、ということなんかも考えて、まったく呆然としてしまったりもしたのであった。
私は冒頭に「黒ぶちメガネ」のことと「偏頭痛」のことを書いたけれども、そのほんのちっぽけな私自身の些末な日常のことだって、まったくのコメディーに思えてきて笑えてきてしまった。実を言うと、私はこうして日記を書いている間、新しく買った「黒ぶちメガネ」をもう一度かけてみて、ウディ・アレンさながら私自身が映画の作中人物になりきって、眼鏡屋の店員と滑稽なやりとりをしたり、アイスノンを頭に巻いてホットミルクと鎮痛剤を飲んで偏頭痛と闘ったりしている様子を回想して楽んだりもしているのだった…
最後に。彼を扱った近年のドキュメンタリー作品『映画と恋とウディ・アレン』 (2011) の中で彼は印象深い次のような言葉を語っていたのでメモしておこうと思う。彼の映画がなぜ単なる快活とした滑稽さだけに終わらず人をして深く人生について思いを巡らさせるのか、窺い知れるようなセリフだと思う。
なぜ人は存在し、苦しみながら生きるのか。人間は自分の存在や孤独とどう向き合っていくのか。答えの出ない問題をいつも考えている。だから僕の映画にはそのテーマがよく忍び込む。僕には道化師の呪いがかけられていて、コメディでしかアプローチできない。悲劇作家の才能があったらよかったが、あいにくなくてね…