岩波仏教辞典初版「往生」の記述について

以前、ヤフオクで岩波仏教辞典の初版の電子辞書を手に入れて、第二版との違いについて記事にしたことがありました (岩波仏教辞典の初版と第二版の電子辞書についての覚書)。私はそこで、この辞書に関する初版と第二版の違いについて、以下のように書きました。

概ね初版のデータを元に (修正ではなく) 加筆されているので、第二版のデータがあればこの初版の電子ブック版は必要ないでしょう。初版データとの比較で有益なことといえば、これらの微妙な違いから、2002年段階でどの箇所を改めて加筆すべきであったかが見れることでしょうか。加筆すべきであったということは、すなわちそこが重要な事実であるということですから、それが確認できることはひとつの利点といえるかもしれません。

しかし、最近、この岩波辞書の初版には (とりわけ浄土真宗で重んじられる語について)、世間の種々の反響を生み出すような内容が含まれていたということを知りました。近年、宗門内のみならず、仏教会全体各所で話題を呼んでいる小谷信千代氏の『 真宗の往生論 』や 『 誤解された親鸞の往生論 』といった著作が発表されましたが、それらの著作の中で、この辞書の初版時の「往生」という語に関連する記述が引き起こした騒動について触れられており、この初版の記述について、再び注意が払われるに至っています。以下にメモ代わりにここに問題とされた箇所を残してみようと思います。

初版の記述

初版の「教行信証」および「親鸞」に関する記述は以下のようになっています1

  • 「教行信証」の項2:

6巻.親鸞の著作.本願寺3世覚如以前は『教行証』と称されていたようである.浄土真宗の立教開宗の根本聖典とされる.〈御草本〉と呼ばれる自筆の再稿本が坂東報恩寺を経て東本願寺に現存する.東国在住時代に一応まとまり,親鸞が死ぬまで補訂した永遠に未完の書ともいえる.念仏の要文を集め,自分の解釈も入れ,体系的に叙述している.無量寿経を唯一の根本聖典とし,教,行,信,証,真仏土,化身土の構成で, この世での往生成仏を説いた. なお,親鸞の往生・成仏思想については,→親鸞

  • 「親鸞」の項:

1173(承安3)1262(弘長2) 浄土真宗の開祖.綽空,善信とも称した.皇太后宮大進日野有範(ありのり)の子.母は幼時に没し,9歳で出家し比叡山にのぼる.山では常行三昧堂の堂僧を勤めていた.20年間の修行は悩みを解決してくれず,29歳(1201),六角堂に参籠し,95日の暁に聖徳太子の示現を得て吉水に法然をたずね,自力雑行(ぞうぎよう)を棄てて他力本願に回心した.1204年(元久1)の『七箇条制誡』には僧綽空と署名,翌年法然から『選択(せんちやく)本願念仏集』を授かり,法然真影の図画を許された.このころ,親鸞と改名か.

  • 「親鸞(遠流・東国布教)」の項:

1207年(承元1),念仏弾圧で死刑を宣告されたが,縁辺の取りなしで遠流(おんる)となり,越後(新潟県)に流された.そこで非僧非俗となり,〈愚禿(ぐとく)〉を姓とした.1211年(建暦1)赦免され,14年(建保2)家族とともに常陸(茨城県)に移住し,京都に帰るまで約20年間,関東各地を流浪して布教.62,3歳ごろ,家族ともども京都に帰った.82歳ごろまでに,善鸞・覚信尼以外の妻子は越後に下る.

  • 「親鸞(著述)」の項:

1250年ごろ(建長初年)から関東の教団に対する弾圧が始まり,善鸞を代理に派遣したが,かえって弾圧者側に与(くみ)するようになり,1256年(建長8)善鸞を義絶.この前後に多くの著述がなされている.弘長2年11月28日,弟尋有の坊舎で没.『教行証』(教行信証)は東国時代に一応脱稿し,死ぬまで補訂推敲された. 他力信心による現世での往生を説き, 他力信心は如来から与えられるものとした(不回向(ふえこう)).専修念仏(せんじゆねんぶつ)に帰入以後,いなかの人々と交わり,そこに真実のこころを見出し,それに対し善悪の訳知り顔の人に虚仮(こけ)不実を見た.

  • 「親鸞(往生・成仏思想)」:

なお,親鸞の往生・成仏思想について,浄土真宗本願寺派や高田派の教義では,命終って浄土に往生し,ただちに成仏すると説く. また真宗大谷派では,信心決定後の生活が往生であり,その帰着点が成仏であると説く.さらに,親鸞の難思議往生=成仏には1)死と同時に成仏,2)臨終一念の夕に成仏,3)この世で心が成仏,4)この世で成仏の四つの時期が見られるとした上で,4)を重視する近年の学説がある.

第二版の記述

それに対して第二版では以下のようにあらためられています。

  • 「教行信証」の項3:

親鸞(しんらん)著.6巻.正式の書名は『顕浄土真実教行証文類』.本文中に1224年(元仁1)の年号が見えるところから,初稿はその頃に成立したと考えられているが,自筆の坂東本(東本願寺蔵)を見ると,最晩年まで改定が続けられていたことが知られる.「信巻」別撰説が出されたこともあるが,書誌学的にはその証拠は見出せない.教・行・信・証・真仏土・化身土の6巻からなり,<無量寿経(むりょうじゅきょう)>における阿弥陀仏(あみだぶつ)の願文(がんもん)を根拠にして,経典や祖師の文章を引用しながら,私釈を加えるという形で展開する.「教巻」ではまず,往相(おうそう)・還相(げんそう)の2種の廻向(えこう)があることを明らかにし,往相に教・行・信・証があるとする.そして,<無量寿経>こそがその最大の根拠となることを明らかにする.「行巻」では,阿弥陀仏の本願になる念仏こそが行であるが,それは衆生の行う行ではなく,阿弥陀仏によって完成された他力(たりき)の行であることが説かれる.「信巻」ではその行を受け入れる信もまた,行者の自力ではなく,阿弥陀仏に与えられた他力であることが説かれる.「証巻」では,その信によって涅槃(ねはん)が到達されることが説かれるとともに,涅槃の世界からこの世界に戻って救済に当たる還相廻向が明らかにされる.さらに,「真仏土巻」「化身土巻」では,真実の信によって到達される真仏土と,自力の諸行や自力の念仏によって到達される化身土が対比される.このように,本書は経典や祖師の著作を用いながらも,それを換骨奪胎して,徹底した他力救済の教えとしたところに特徴がある.

  • 「親鸞」の項:

1173(承安3)−1262(弘長2) 浄土真宗の開祖.綽空(しゃくくう),善信とも称す.いわゆる鎌倉新仏教の祖師の一人.皇太后宮大進日野有範(ありのり)の子.母は幼時に没し,9歳で出家し比叡山にのぼる.山では常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の堂僧を勤めていたといわれる.20年間の修行は悩みを解決してくれず,29歳(1201),六角堂に参籠し,95日の暁に聖徳太子の示現を得て吉水に法然をたずね,自力雑行(ぞうぎょう)を棄てて他力本願に回心した.1204年(元久1)の『七箇条制誡(しちかじょうせいかい)』には僧綽空と署名している.翌年法然から『選択(せんちゃく)本願念仏集』を授かり,法然真影の図画を許された.このころ,<親鸞>と改名か.1207年(承元1),念仏弾圧で死刑を宣告されたが,遠流(おんる)となり,還俗(げんぞく)して越後(新潟県)に流された.以後,非僧非俗を貫き,<愚禿(ぐとく)>を姓とした.1211年(建暦1)赦免され,14年(建保2)家族とともに常陸(茨城県)に移住し,京都に帰るまで約20年間,関東各地で布教した.62−63歳ごろ,家族ともども京都に帰った.82歳ごろまでに,善鸞・覚信尼以外の妻子は越後に下る.1250年ごろ(建長初年)から関東の教団に対する弾圧と教団内の異義が生じ,善鸞を代理に派遣したが,かえって親鸞の教えから離反し,1256年(建長8)善鸞を義絶した.この前後に関東の門人に宛てて多くの著述がなされている.1262年(弘長2)11月28日,弟尋有(じんう)の坊舎で没.諡号(しごう)は見真大師(けんしんだいし).主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は東国時代に一応脱稿し,死ぬまで補訂推敲された.

他力信心による往生を説き,その信心は如来から与えられるものとした. 自らの内なる煩悩を深く見つめ,それ故にこそ弥陀の救いが与えられるとするその思想は,近代になって改めて高く評価されている.親鸞没後,その廟所は親鸞の子孫によって護持され,覚如(かくにょ)によって本願寺(ほんがんじ)と称されるようになった.蓮如(れんにょ)によって大教団に発展し,今日の浄土真宗の基礎が築かれた.

浄土真宗諸派の間では親鸞解釈に関して相違があり,たとえば往生・成仏思想について, 浄土真宗本願寺派や高田派の教義では,命終って浄土に往生し,ただちに成仏すると説くが,真宗大谷派では,信心決定後の生活が往生であり,その帰着点が成仏であると説く.

中村元の論文

これらの記述によって引き起こされた問題の詳しい経緯は中村元氏の以下の論文の中に詳しく触れられています (cf. http://amidado.jpn.org/koukyouji/thesis/01.htm)。

  • 中村元「極楽浄土にいつ生まれるのか? —『岩波仏教辞典』に対する西本願寺派からの訂正申し入れをめぐっての論争—」 (『東方』6, 東方学院, 1990, pp. 88–221, INBUDS)

このいわゆる「岩波仏教辞典問題」について、以下の様な論文も発表されています。

  • 後藤義乗「親鸞聖人における往生の語義–岩波仏教辞典問題を縁として」(『印度哲学佛教學』7, 北海道印度哲学仏教学会, 1992, pp. 216-223)

『南御堂』1990年10月号の記述

この問題については、世間でさまざまな反響があったようですが、真宗大谷派大阪教区の『南御堂』という新聞に延塚知道氏と本多恵氏の初版の「往生」に関連する記述についての擁護向きの興味深い記事が載っていますので、それもメモ代わりにここに一部抜粋しておきたいと思います。

  • 延塚知道「信の一念の現在に “往生を得る”」(『南御堂』1990年10月号, p. 5):

… 二種深信の教えに依れば、如来に賜った出離の縁なき身の自覚を機の深信と言い、それが生かされていく如来の働きを、自覚的に法の深信と言う。親鸞はそれを、「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑なく慮 (おもんばか) りなくかの願力に乗ずれば、定んで往生を得」と読む。「乗彼願力 定得往生」を「かの願力に乗ずれば、往生することを得る」と、往生を未来に読むのではなく、信の一念の現在に「往生を得る」と読む。

… 善導に教えられた願力に乗託して実現する現世の往生が、そのまま正定聚 (如来の真実である涅槃を依止とする人生) と捉え直されたから、往生浄土を説く浄土教が、大般涅槃道という大乗の仏道として顕揚されたのである。だから、往生が未来往生と了解されるなら、浄土真宗は、親鸞が了解したような、大乗の仏道としての実質を持ち得なくなると思う。

  • 本多恵「「往生」は今はじまる 命終わってではない」(同, p. 11):

… 往生は今はじまる。刻一刻が往生である。親鸞聖人は「信心さだまるとき、往生またさだまる」と明言されている。

… 往生とは人間が人間として生き、常に新しく再生し続ける、たゆみなき歩みをいうのであろう。そして人生を尽くし切った完全燃焼を成仏と教えられるのであろう。

「人生の熱と光を願求礼讚」し、「人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」る。この歩みこそ「往生極楽」の歩みであるに違いない。死んだこと、行きづまったことを「往生した」と一般に言われる。このことを常識にまでしてしまった真宗門徒は、今こそ親鸞聖人の真教を、痛惜の念に立ち身をもって開顯しなければならない。

Footnotes:

1

以下の引用すべてに関して、ゴシック体イタリック体および段落分けはこの記事の作成者によります。

2

『電子ブック版 岩波仏教辞典』, 編者: 中村 元, 福永光司, 田村芳朗, 今野 達, 発行者: 安江良介, 岩波書店, 1995. 以下すべて同。

3

『岩波仏教辞典第二版CD-ROM版』, 編集: 中村 元・福永光司・田村芳朗・今野 達・末木文美士, 発行者: 山口昭男, 岩波書店, 2004. 以下同。

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