Hの思い出

Hは私の小学校時代の親友だった。

小学校3年生の時に同じクラスになり、そのまま小学校を卒業するまでほとんど何をするにも一緒だった。Hは、小柄で、やんちゃで、男気があって、ガキ大将で、あまり勉強は得意ではなく、お金持ちだった。ちょうど活発な「猿」のようによく動きまわり、クラスの目立つ存在だった。私はというと、どちらかと言うとおとなしい方で、わがままで神経質で繊細で、図工や音楽の時間が好きで、お寺の息子だった。対照的な性格だったと思うが、私たちはとても気があった。

なぜか記憶によく残っている出来事。たぶん4年生の図工の時間だったと思う。図工の時間に、隣同士が向かい合い、木工版画の下絵のためにお互いの顔を描いていた。私の隣はHだった。私たちは向かい合い少し照れながらお互いの顔を注意深く観察した。Hは細かい作業が苦手なので、どこか機嫌が悪いように見えた。一方で、私は絵を描くことが好きだった。Hの顔の特徴を掴み、描くことに集中していた。ある程度、絵が完成した頃、Hが私の画用紙を覗きこんだ。すると、真っ赤な顔で私にこう言った。

「お前、それ、猿、描いてるやんけ!」

小柄で真っ赤な顔のHは、本当の猿のようにキャーキャー喚いた。私はふざけたつもりはまったくなかったので、腹が立った。

「猿なんか描いてへん。真面目に描いてるだけや!」

「でも、それ、どうみても猿やんけ!」

「そんなもん、モデルが猿やからしゃーないやんけ!」

「しばいたんねん!!」

Hは私に飛びついてきた。私も負けず応戦した。もはや教室は図工の時間どころではなく、男子は我々の喧嘩を囃し立て、女子は好奇の目で見ていた。我々二人は教室の外へ出され、反省させられた。並んで立たされた我々は、顔をそむけしばらく黙っていた。しかし、しばらくしてその沈黙に先に耐えられなくなったのはHの方だった。

「隣のクラス、覗きに行かへん?」

小学4年生の私は、図工があまり好きでないHが長時間の細かい作業に耐えられないで機嫌が悪くなっていただけだ、ということを十分に理解していた。我々はすぐに仲直りして、隣の教室の扉のガラス窓から中を覗いて、真面目に授業を受けている隣クラスの生徒たちをからかった…

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Hについての、こうした細かい出来事をよく覚えている。結局のところ、我々はよく喧嘩もしたが、仲はよかった。私たちは、およそ小学生ができる悪行として思いつくような、ほとんどすべてのことを行ったが、実際に怒られるのはいつも目立つHの方だったように思う。私は、寺の息子だということも加わって、いい子ぶっていたところもあって、未だにこうしたことを思い出すたび、Hに申し訳ない気持ちが湧いてくる。いつもこっぴどく怒られた後に、私のもとに寄ってきて、「最悪や」と本当にさも最悪だという表情を顔全体で表現して言っていた。

Hは、私のあらゆることを真似しようとした。私が新しいスニーカーを買うと、数日後にはまったく同じものを履いていた。私が通っている習い事は、すべてHも通った。そして多分(我々はそういう話はしたことがなかったが…)、私の好きだった女の子と同じ女の子のことを、Hは好きになった。我々は同じ黒のマウンテンバイクに乗って、同じ学習塾に通った。時折雨が降ると、Hの母親がメルセデス・ベンツで送ってくれた。Hはいつものことだと言わんばかりの顔だったが、広い車内の、皮張りのシートの乗り心地は、今でもはっきりと覚えている。ベンツは時折帰りにはレストランに寄って、我々はそこでなんでも好きなものを注文できた。僧侶である私の父が塾まで送るときは、特徴のないトヨタの普通車だった。もちろん、レストランに立ち寄ることもなかった。私は、私の家の車が何の変哲もない普通車で、レストランでご馳走することもないことを、幼心にとても申し訳なく思っていたが、Hはそれについて何か言ったことはなかった。

Hには3つ年上の兄と、一つ年下の双子の弟がいた。双子の弟は、Hと同じく、やんちゃでガキ大将で目立つ存在だった。おまけにそうした存在が2人もいるので、同学年で彼らに文句を言える者はいなかったように思う。一卵性双生児の彼らを見分けることができるのは、ごくごく近い肉身や友人だけだったが、私は長くHと一緒にいるうちに、自然と見分けが付くようになった。おそらく、彼らを生徒として受け持ったどの担任の先生も(たぶん私の親も)、外見だけで彼らを見分けることができなかったんじゃないかと思う。

Hの3つ年上の兄は知的障害を持っており、小学校では「なかよし学級」という特別のクラスに通い、Hのことを知る者でそのことを知らない者はいなかった。Hの家に遊びに行くと、このお兄ちゃんが必ずいて、我々はよく3人で「プロレスごっこ」などをして遊んだ。Hの口癖は「お兄ちゃんはすごいねんぞ」というもので、私も実際この兄は大変な大物だと思っていた。こうしたHの態度は弟たちにも共通しており、家族全員がHの兄に最大限の敬意を払うという構図があった。しかし実際には、Hは兄のことで相当な悔しい思いをしていたはずであった。私自身も、年上の先輩が兄のことでHをからかうといった場面に幾度か出くわしたことがあった。そうした時、Hは拳を強く握って、唇を噛み締めて、するどい目つきでじっと耐えていた。そしてその先輩が立ち去った後、Hはけっしてその話題をしようとはしなかった。私たち二人は、そうした言動をする人間を、話題に上げるほどの価値もない人間であると、心から軽蔑していた。いや、少なくとも、私はそうであった、と書く方が正確かもしれない。我々はそうした話を一切しなかったのだから。

やがて我々は中学受験を迎え、私は地元から電車で1時間ほどの距離にある中高一貫の私立中学に合格した。Hは希望した学校に合格することができなかった。地元の、あまり評判のよくない公立中学への進学を避けるためもあったかもしれない。我々の中学進学を機に、Hの家族は大阪市内の私の地元から兵庫県のA市へ引っ越した。

私は、ランドセルの生活から、一気にブレザー・ネクタイの電車通学に変わり、友人関係など環境も一変したことも加わり、中学生活とは今までの一切から切り替わって生活するものだと、どこかで思い込んでいた。そして、実際にそのようにして私の中学生活はスタートした。あれほど四六時中一緒にいたにもかかわらず、私は中学入学を機にHとまったく連絡を取らなくなった。Hどころか、入学してしばらくは、とにかく新しい環境に慣れることだけに必死で、地元の友人ともほとんど遊ぶことがなかった。

Hと再開するのは、その6年後の高校3年生の大学受験直前の時期だった。Hはひょっこりと私のお寺の玄関に姿を現した。

「免許取ったから、遊びにきてん」。

胸元にサングラスをかけて、数年ぶりの彼は、声変わりした図太い声で、照れくさそうにそう言った。お寺の門の前には、初心者マークをぞんざいに貼った新車のメルセデス・ベンツがハザードを出して止まっていた。数年ぶりに会った我々は玄関先で少し話をしたが、結局受験直前ということで、私は一緒のドライブを断って、その日はそれで別れた。「なんだか一足先に大人の生活をしているな」。私はそんなことを思ったように思う。しかし、彼の姿を見るのは、それが最後となった。

私は大学受験を終え、無事進学し、しばらくはまた新しい環境に慣れることに必死だった。結局中学高校と6年間同じ学校に通ったので、また環境が一新して、気分的にもひとつ大人になったという感覚を自分の中に馴染ませることに、幾分苦労していた時期であったように思う。制服での高校生活から一変して、ラフな私服で大学の授業を受けるようになり、まだ操作のおぼつかない携帯電話をポケットに忍ばせ、慣れないスーツ姿で塾講師と家庭教師のアルバイトを掛け持ちし、新しい恋人も出来て、酒やタバコも本格的に覚え始め、さて私も免許でも取ろうかななどとと考えはじめていた。すべてがどこか浮き足立っていて、ワンサイズ大き目のフォーマルなスーツを大人ぶって着ているような、変なぎこちなさがあった。そうした時期だった、彼の訃報が入ったのは。オートバイ事故だった。やや自信過剰で荒っぽい性格だったHは、多少無理な運転をしていたのかもしれない。彼の訃報は、彼と小学生時代一緒に通っていた空手道場の先生からだった。葬儀は彼の地元のA市の葬儀会館で行われ、当時の空手道場の仲間幾人かと共に参列した。遺影に写る彼の笑顔は、ほんの数カ月前にひょっこりと現れた彼のその笑顔そのままであった。小学生時代の面影を残しつつ、やや大人ぶって、図太い声でぼそぼそと、照れくさそうにはにかんでいた。「免許取ったから、遊びにきてん」。

数年ぶりに会う彼の両親と、大人になったHの兄と双子の弟と、私の知らないHのたくさんの友人たちが、喪服に身を包みHのために涙を流していた。私は涙がでなかった。まるで夢のように、目の前の非現実的な出来事が、淡々と流れていった。

(続く…)

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