私は結局、20代のほとんどを地元を離れ生活した。大学を休学して世界旅行に出かけたり、東京で好きになった女の子と一緒に生活してみたり、京都の大学近くで何度か居を移し研究に没頭する下宿生活を過ごしたり、ヨーロッパへ長期の留学をしたりと、実家のお寺へは主な行事の時に帰省するくらいで、割と好き放題にほとんどの時間を自分のその時々の環境の中で生活した。大学院の博士課程を終え、大学の研究機関へ少し務めた後、自分の進退についてあれこれ葛藤はあったが、父親が白内障を患い車の運転が出来なくなった時期を機に、30歳を超えてようやくお寺の嫡男として大阪の自坊へ帰ってきて、お寺の法務を始めるようになった。
地元へ帰ってしばらく生活すると、それまであまり考えなかったようなことが頭をよぎるようになった。とりわけ地元の懐かしい風景に刺激されて、幼少期の思い出が、ふとした瞬間に蘇る。そうした中で、Hのことも頻繁に思い出すようになった。
私は不義理なことにも、Hの葬儀以来ついぞ一度もお墓参りにすら行っていなかったどころか、彼の墓がどこにあるのかも知らなかった。先にも書いたとおり、私たちが中学進学の際にHは兵庫県A市に引っ越しており、引越し先の住所は引き出しをあさると実家に残っていた。しかし、果たしてこの20年以上の間に住居を変更していない保証はないし、その確認も兼ねて突然訪問することも考えたが、どうもそうした行動に踏み切れずにここ数年、Hのことがずっと心のどこかに引っかかりながら過ごしていた。
そして昨日6月20日の土曜日、たいてい僧侶というのは土日祝日が忙しく、私は土曜の午前中に自坊にいることはめったにないのだが、この日は10時までに一度法務が終わり、帰宅していた。帰宅するなり坊守(母親)が開口一番、
「庭のネムノキがね、咲いてるよ」。
と教えてくれた。「ネムノキ」とはマメ科の落葉高木で、夜間、小葉を閉じて就眠運動をすることからその和名が付けられている。通常は6~7月頃、淡紅色の長いおしべのある花をつけるが、我が家のネムノキは玄関の脇に植えて以来、すでに樹高は3mを超えているが、花を付けたことがなく、半ばあきらめていたところだった。
私は珈琲を片手に庭に出て、急ぎ確認してみた。なるほど薄紅色の花弁がいくつか見つかった。花自体は夕方に咲くそうなので、昨晩のものがその日の午前中まで残っていたのだと思う。
花糸の紅色が可憐でたいへん美しい。なんだか嬉しい気分で眺めていると、1000ccの大きなバイクが寺の門の前に止まり、体格のいい見慣れない男性が境内に入ってきた。
「あの、わたくし〇〇(会社)の者ですが、ずっと以前空手道場でご一緒だった…」
「…ああ、ええっと… あ!わかります、わかりますよ!お久しぶりです」。
私は彼の顔を見て、ほんの少しの後に、すぐにそれが誰が理解した。私がHと小学生時代に一緒に通っていた空手道場の先輩が、突然訪問してくれたのだった。
「何年ぶりやろ?あいつの、ほら、Hの。あの子の葬儀以来ちゃうか?」
「そうです。ええっと…17年ぶりですか。ご無沙汰しています」。
私は彼を境内のベンチに招き入れ、母親にお茶の用意を頼んだ。
「ところで、どうしてこんな突然?」と私。
「いや、実はね…」
なんでも、空手道場自体は何年か前にそれまで使用していた体育館が使えなくなって以来なくなってしまったのだが、道場生同士の付き合いはあれからずっと続いていて、道場の長の先生は会社を退かれてもう70近くになられているけど、みんな地元の人間なので、たまに会ってお酒の場を持っている。そこで、誰からともなく私の話になって、「あいつは今頃寺を継いでるはずだから、誰か見てこい」という話になったらしい。実に体育会系らしい「ノリ」である。しかし、なんとも、道場に通っていた頃から実に20年以上経過しているのに、私の事を覚えていてくれて、そして連絡を取ろうとしていただいたことが嬉しかった。
私たちはお互いの近況を話し合い、私はほとんど途切れかけた記憶をたぐり寄せるようにして、懐かしい名前を引き出して、それぞれの近況を尋ねた。幾人かは未だに付き合いがある人もいれば、幾人かはさっぱり消息がつかめない人もいた。
そうした中で自然と話題はHのことになった。私は、高校三年生の時に、Hがひょっこりと寺に来たことを話した。
「…あいつはなあ、実は事故起こす前、道場にも来ててん。で、先生にあんまり無理な運転するなよ、とか言われとった矢先やったんやなぁ…」
「そうですか…」。
梅雨の中休みの晴れ間のでた午前中の寺の境内に、重い沈黙が流れた。まるであいさつ回りをするかのように、事故の直前にHは、幼少期を過ごした地元の人間に顔を見せていたのだった。
「…ところで、Hの弟ともひょっとして連絡つきますか?僕は彼らがA市に引っ越して以来、まったく連絡取ってなくて…」
Hの弟たちも一緒に同じ空手道場に通っていたので、私はひょっとしてと思ったのだった。
「ああ、たぶんそれからずっとおんなじ所住んでるよ。で、一人は数年前、もう一人は去年やったかな、結婚したよ。一人は髭生やして、一人はつるつるや。でも、相変わらず似とるわ」。
私は思わず小躍りしそうになった。お寺の法務に携わるようになってずっと、とりわけA市の近くを車で通るたびには必ずといっていいほど、私はHの事を考えていたので、せめてお墓の場所だけでも聞いて手を合わせたいと強く願っていたのだった。
私は訪問してくれた先輩とHの弟の一人の連絡先を聞いて、しばらくまた懐かしい話をしてから、先輩と別れた。
「じゃあ、また飲み会の連絡するわ」。
「お願いします。今日は本当にありがとうございました。先生にもくれぐれもよろしくお伝え下さい」。
しかし、なんとも不思議な訪問だった。まるで、玄関先で初めて花を付けた薄紅色のネムノキの花に誘われるかのように、偶然私が境内にいた少しの時間に、彼は現れた。「免許取ったから、遊びにきてん」。私は、高校3年生の受験直前にひょっこり現れたHの姿を思い出していた。
私はその日まだ少し法務が残っていたので、しばらくお寺を離れたが、帰宅後すぐにHの弟に、ご無沙汰の挨拶と私の連絡先を書いた短いメッセージを送った。すると、1時間ほどのちにHの弟から電話が来た。
「あの、Yさん(私の名前)ですか?ご無沙汰しています」。
電話越しは、すっかり大人の声の、しかしどこかにあどけなさを残したHの弟の声だった。
「ああ!連絡ありがとう。突然連絡してしまい、どうもすみません…」
私は連絡先を知った経緯と、私が寺に戻ってきてからの簡単な近況を説明した。そして、Hのことについての私の不義理を詫びて、彼のことがここ数年ずっと気になっていたことも話した。
「だけど、なんで今日連絡くださったんですか?」
「いや、ほんと偶然でね。Bさん(先輩)が数十年ぶりにお寺に来てくださって…」
「実はね…今日は兄の命日なんです。兄の命日は、今日6月20日なんです」。
「え!?」
私はしばらく言葉を失った。私自身の次の言葉を探している内に電話越しの声は次の言葉を話しだした。
「…だからね、今家族皆んなA市の家に集まってるんです。Yさんからの連絡、とっても不思議だったんです。今もね、家族でなんでだろう、って話してたんです。だから僕すぐお電話してしまって…」
私はすぐにでもA市のお家におじゃまして、一緒にお参りさせていただきたい、ということが喉元まで出かけたが、葬儀以来の私の不義理と、命日すら失念していたことがただただ申し訳なくて、その一言が言えなかった。
「…そうだったんやね… 連絡ができたのは、きっとお兄さんの導きだったんだと思う。僕も家の本堂で今日お兄さんのことを思ってお勤めさせてもらいます。どうも、本当に、連絡ありがとう」。
私は、ご両親他ご家族へのご挨拶をお願いして、すぐ近くに会うことを約束して電話を切った。
しばらくの放心状態の後、私は庭に出て、ネムノキの花を一輪切り取った。梅雨入りした大阪のその日の雨の天気予報は見事に外れて、傾き始めた太陽の光は、みごとに薄紅色の花を後ろから照らしていた。私は切り取ったネムノキの花を小さな華瓶へ挿して、本堂の花瓶(かひん)の横へお供えした。そして、衣に着替えて本堂で一人お経を上げた。お勤めが終わり、手を合わせて、私はしばらくの間目をつむり、Hのことを考えていた。ずっと思い出すことのなかったHの思い出が次々と出てきて、私は葬儀以来はじめて、Hのことで涙が溢れてきた。
きっと、庭のネムノキがはじめて花を付けたのも、土曜の午前に私が境内に出ていたのも、17年ぶりに先輩が訪問してくれたのも、大雨の天気予報がはずれたのも、そしてその日がHの命日であったということも、全部偶然にすぎないのだと思う。人間が勝手に、そうした偶然に意味を見出して、あれこれ騒ぐだけなんだと思う。だけど、私は少なくとも、そうした世界の「小さな目印」に敏感になることで、亡くなったHの命について、そして今ここに生きている私自身の命について、より強く思いを馳せることができたのだった。
世界はこうした小さな目印であふれているんだと思う。それはすべて偶然で非科学的でつじつま合わせの取るに足らないことであったとしても、私たちはそうした小さな目印に敏感になることで、生き生きとした命の奇跡を感じることができる。私たちはもしかしたら、世界のそうした小さな目印を紡ぎ合わせるために、ここにこうして意識を持って生きているのかもしれない。
幸運なことに私は、今年のお盆には、Hのお墓参りをさせていただくことができる。こんなに嬉しいことは、本当にないのだ。