拝啓
お元気ですか。大阪では立て続けに大きな台風が来て、無事通り過ぎたと思ったら、知らない間に随分と冷え込むようになりました。今日は、僕は一日お休みで、とくに何もすることなくぼうっと過ごしました。一つしたことといえば、タンスから冬服を引っ張り出してきて、一年ぶりに袖を通しました。肌に触れるものが変わると、少し気分が変わりますね。今は夜の8時、一年ぶりのカーデガンを羽織り、新しいコーヒーカップで、温かいカプチーノを飲みながら、長い冬の入口の季節に、この手紙を書いています。
こちらの生活は、まあ、相変わらず、といったところです。日々、何か変化がありますが、全体を振り返ると、それほど大きな変化もなく、無事に日々楽しく過ごしています。僕の生活は、日々いろんな方とお会いすることを常としています。その多くは、自分よりずっと年上の方とお話することが多いのですが、中には若い方もいらっしゃいます。仕事の関係で、同年代の同僚とも年下の後輩とも話しをします。旧来の友人ともあってお酒を飲むこともあります。家族とも話をします。たくさんの人が、日々季節のうつろいゆく中で、僕の中を通過していきます。毎日口にする食べ物が、僕の滋養分となって体を通過していくように、それらの人たちとの出会いは僕の中になんらかの形で蓄積されて、そして去っていきます。それぞれの人たちの日常の出来事の一部が、感情の一部が、それらの人たちと会うことで、僕の中に少しだけ移動します。おそらく、彼らにも、僕の中のなにかが少しだけ移っていっているんだと感じます。
そういった多くの人との出会いの中で、人というのは自分の鏡であると痛感します。人を通じて、自分自身が映し出されます。僕は幸いなことに、多くの人と日々出会いますので、たくさん自分の姿を見ているようです。それは、いいことばかりでもなく、時にとても嫌な思いもすることもあります。鏡に映った自分の姿の好きな角度があるように、自分の姿の見たくない角度があります。人の中に強烈なエゴが見えることは、あまりいい気分がしないものです。でも、他人にエゴが見えるということは、自分にそのエゴが理解できるということであるので、やはりそれは自分のエゴの形が、その方に映っているにすぎないのだと思います。だから、嫌な思いをする、という経験は、とても大事な経験なのですね。自分自身の受け入れられない部分を見つめなおす機会でもあるのですから。どうしても受け入れられない人というのは、ある意味で、どうしても受け入れられない自分のエゴなのかもしれません。僕たちは自分がとても可愛いですから、自分のエゴを棚に上げて、他人のエゴを批判するのかもしれません。批判することは簡単で、受け入れることはとても力が入りますから。
こんなことを今日一日考えていました。僕はどうもまだまだ未熟で、ついつい他人を批判して、イライラしてしまうことが多いようです。そうしたことが自覚できたとき、自分の器の小ささに辟易して、自分のことながら恥ずかしくなります。どうか、そうした批判の対象が、本当は自分自身であることを、いつも忘れないように。他人を批判するなんていう、簡単な道をとらないように。受け入れられないことが、自分を知る好機だと考えられる冷静さを持てますように。そして、そうした批判の心が、慈愛の心に変わりますように。
いつもこんなことを書いてしまってすみません。今日はなんだかとても気分が良く、Sさんに手紙を書こうと思い立ったのですが、結局また自分のことばかり。「まだまだ若いわね」と笑っているSさんの顔が目に浮かびます… 先日お伺いした折に撮った写真をいくつか同封させていただきます。京都の美味しい日本酒もお送りいたします。あまり一気に飲んでしまわないようにしてください(笑)。お世話になったOさん、Bさんにもどうか宜しくお伝えください。また、こちらの仕事が一段落したら、必ずお顔を拝見しにお邪魔いたします。
それでは、季節の変わり目、くれぐれもご自愛ください。
敬具