十二月の扇 (臘扇) —無用なる我の発見—

昨年 2013/09/18 に開催された毎田仏教センター所長の羽田信生先生による、臘扇忌法要の記念講演「十二月の扇 (臘扇) —無用なる我の発見—」の文字起こしを行いました。私はその場で講演を聞いていたのですが、やはりもう一度じっくり音声を聞き直すと、より深く先生の講演内容を味合うことができたように思います。

一時間半ほどの講演で、前半は釈尊と清沢満之先生の「真の自己の発見」について、後半は映画やテレビ番組でのその具体的な例を示してくださいました。この講演会は大阪の難度会主催で、いずれ正式に文字になって出版されるでしょうが、ひとまず私が今回作成したドラフトをPDFにしてここに置いておくことにします。先生が語られた言葉そのまま文字起こししているので、少し読みにくいかもしれませんが、講演を聞き逃した方でご興味のある方はどうぞご覧ください (前半, 後半)。

先生のお話の前半では、まず釈尊の悟られた「縁起の真理」の内容が語られました。釈尊はその縁起の真理によって、固有的な実体がない、すなわち「空」なる自己というものを発見され、そこに自己が考える分別的な自己から、真の自己が見出されていったとお話くださいました。次に清沢先生は、釈尊の縁起の真理から学び、また清沢先生ご自身の苦悩の経験を通じて、先生ご自身の自己が「落在者」あるいは「臘扇」(十二月の扇, 無用の長物という意味) として見出され、そこから「真の自己」としての大いなる命への目覚めが起こった、という内容をお話くださいました。

後半では、西村英雄さんという方のNHKの番組でのインタビューを通じて、この「真の自己の発見」ということを違う視点よりご説明いただいています。西村さんはクリスチャンですが、やはり釈尊や清沢先生に共通するような「自己の転換」というものをご経験されています。西村さんは、ご次男さんとの死別やご自身の鬱病疾患を通じて、「大地の塵に唇をつける」という自己が崩壊するようなご経験をされ、ご自身の東大教授という地位ある立場から解放された「真の自己」を発見されていきます。

私は、羽田先生のお話を拝聴させていただきながら、この自分自身によって規定されている分別的な自己から、大いなる命ともいうべき真の自己へと根本的に転換していくという、羽田先生ご自身のご体験のお話を、もう少し詳しくお聞きしたいなと感じていたのですが、おそらくそれは講演の中の次のような言葉で語られる場面から想像されます。

私は40年間アメリカに住んできましたので、今日本に帰ってくるのが外国に来るような気持ちがします。私が40年以上前に日本に住んでいた時、私には「自分の場所」と言えるものがあったわけです。そこで自分が重要であるという風に感ずる場所があったわけです。しかし、日本で40年前あったそのような場所を今日本で見つけることはできないわけです。

私が日本に私の場所を、私が重要であると感じることのできる場所を、もはや見つけることができないということを、私が知るときですね、次のようなことを思います。「40年前に私は本当に日本に私の場所を持っていたのだろうか。私は40年前に本当に私は自分の場所と思えるものを持っていたんだろうか。私が重要だと思ったのは、幻想ではなかったか」と。

日本において、私自身の存在の虚しさを感じるとさらに、次の問いを私自身問わずとおれないわけです。その問いはこのようなものです。「私は過去40年間アメリカで暮らしてきたけれど、私は本当に私の場所と言えるものを持っているのだろうか。米国で自分が重要と考える仕事を私がしているということは事実です。しかし、米国に私の場所と言えるものがあると考えることは幻想ではないのか。私は自分自身の本当の姿を見ているのだろうか。私が自分を重要と考える思いは、幻想ではないのか。私は私自身を過大評価しているのではないか」と。私達は、自分が不可欠な存在であるという風に確信しているけれども、私達は私達が考えるほど重要でも不可欠でもないんだと思います (講演会より一部抜粋)。

羽田先生は、釈尊の縁起の真理、あるいは清沢先生の「落在」や「臘扇」という言葉、また西村さんの「大地の塵に唇をつける」という経験談を通じて、先生ご自身が日本で生まれ、アメリカで研究を続けている中で、ご自身がいかなる固有的実体もない「空」なる自己であるということを痛感され、「真の自己」への洞察を深めていかれたのであると推察します。

それでは、翻って私自身はどうなのでしょう。羽田先生のご講演をお聞きして、自己について内省すればすれほど、世間的規定の内部で自分自身の固定された価値観にしがみついて生活している自己の姿が浮彫になっていきます。私は、文字の上で、清沢先生の「落在」や「臘扇」といった言葉や、西村さんの「大地の塵に唇をつける」といった体験を理解することはできますが、しかし真の意味で、そこまで墜落しきった、そしてまた自身の分別的価値観から一切自由となった開かれた自己を、常に、意識することはできません。どこかで、自分の安定できる立ち位置を保ち、墜落しきることへの予防線を張って、そこに安住している自分自身の姿が見え隠れします。私自身の真によるべき立ち位置とはどこか。もはやこれ以上に落ちるべきところのない地平とはどこか。親鸞聖人がおっしゃられた「地獄一定すみか」とはどこか。そのことに思いが至るとき、私自身の浮ついた不安定な足場が意識されてならないのです。そういったことを考えさせていただく、貴重な講演内容でした。

講演内容の記録は以下からどうぞ。

  • 十二月の扇 (臘扇) —無用なる我の発見— (前半): PDF, 音声
  • 十二月の扇 (臘扇) —無用なる我の発見— (後半): PDF, 音声

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