夢のトンネル

ちょうどひと月ほど前に 予知夢のお話 という日記を書いたが、実はこの話には続きがあって、それがずっと気になっているのでここに記録しておこうと思う。簡単に先日の記事の内容をここに繰り返すと、いつも月参りに行っているお宅のご門徒さんが、ある予知夢のような夢の話を私にしてくれたのだった。私は、そこの一人暮らしのご婦人のご主人 (Kさん) の命日のお参りのためにそのお宅を訪問しているのだが、Kさんの弟さん (Nさん) が不慮の交通事故で亡くなる数日前、そのご婦人はNさんの死を予言するような夢を見たと言うのであった。

彼女の夢には亡くなったKさんとそのお孫さんが出てきて、彼らはまるでNさんの死を予言するかのように、夢の中で象徴的な行動を取った。夢の中には、もくもくと排気ガスの煙を上げる車が出てきて、その横に無精髭を伸ばした彼女の旦那さんのKさんが立っていた。車の後ろには彼女のお孫さんが立っており、その子はしきりに両手を振り「バイバイ」と繰り返していた。Kさんは、ゆっくりと彼女の方へ3歩近づき、彼女の方へ体を向けたまま、すうっと後ろへ下がって行き、消えた。お孫さんは排気ガスを上げる車へ向けて「バイバイ」を繰り返していた。

その3日後にNさんは交通事故に遭われて急逝した。彼女の説明によると、夢の中に出てきた車はもちろん交通事故を、Kさんの登場はあの世からのお迎えを、Kさんの「3歩」はNさんのその「3日後」の事故を、孫の「バイバイ」は叔父さんへのお別れを、そして車の排気ガスは火葬の煙を、それぞれ象徴していたと言うのだ。

そこのご婦人は、私がお参りにあがると時々少し不思議な話を語ってくださる方だったので、この日も多少の猜疑心とある種の興味を持って、私はこの話を聞いていたのだった。私自身には、これが果たして本当に予知夢なのかどうか、いまいち判断しかねるところがあるが、しかし、彼女の心底真剣な語り口と、この話の偶然の一致には、確かに私の興味を引かせるものがあった。

そして、実はこの話にはもうひとつ不思議なことがあったのだった。そのことについて私は先日の記事では書かなかったが、実は私はこのご婦人からこの夢の話をお聞きする前日、彼女がこの日語ってくれた夢とまったく同じ夢を見ていたのだった。それも、奇妙なほど細部まできっちりと同じ夢を。

私はこの日、ご婦人が夢の話をしはじめたとき、正直なところあまりいい印象を受けなかった。私は心の中で「ああ、またはじまったか」と少しうんざりし、いかに彼女の話を短く終わらせてこの場を離れるか、といったことを考えていた。しかし、彼女が夢の話の内容を語り始めるや、私は彼女の話に釘付けにならざるを得なかった。それは、私がその前日に見た夢そのものだったからだ。私の夢の中にも車の横に男性が立っていた。車の後ろには子供が手を振っていた。車は排気ガスを上げてバックしてきていた。細部に至るまで、全く同じだ。私はふと気になって座敷の鴨居に掛けてあるKさんのご遺影を見た。前日の夢の中ではもちろん、私は自分の夢の中の男性がKさんだとは考えもしなかったが、実際そのご遺影の男性だと言われればそのようにも感じる。なにぶん夢の話なので私の記憶も曖昧であり、はっきり同一人物とは断定できないが、私の夢の男性も、たしかに無精髭を生やし私の方へ3歩近づいてきた。この「無精髭」と「3歩」というのは鮮明に覚えていた。なぜなら、その瞬間夢は、まるで映画のズームアップとスローモーションのような動きをしたからだった。私はご婦人のお孫さんにはまだ会ったことないが、あるいは同じ子どもかもしれない。しかし、私の夢に出てきた子供が彼女の孫と、少なくとも同じ年格好の子どもであるということだけで、私を驚かすには十分であった。

私はこの日、彼女の予知夢の話を聞き終わって、「不思議なことがあるものですね」とだけ言い残し、お家を後にした。もちろん、私がその前日にまったく同じ夢を見ていたことには触れずに。私は心の中に引っ掛かりを抱えたまま、次に行くべき場所へと車で移動した。この後、午前の法務を終えて帰宅後、私は心のわだかまりを解消すべく、すぐに先日の記事 (予知夢のお話) を書いたのだった。

私はシュールレアリズムの領袖アンドレ・ブルトンが1928年に発表した小説『ナジャ』のことを考えていた。この小説では、「ぼく」が病気のナジャに街角で出逢い、彼女の長い身の上話に引き込まれることから物語がはじまる。『ナジャ』は一種の実話小説であり、精神分析の治療の記録として読むことができるが、その小説で主として扱われているテーマは精神分析的な「転移」である。この小説『ナジャ』は、人間と人間の間に「転移」がおこるときにのみ無意識というものが顕わになってくる、ということを描写している。

この小説にはそのタイトルでもある精神病の女性「ナジャ」が登場し、語り手である「ぼく」が、彼女との付き合いの中で精根尽き果てる様子が描かれる。たとえば一種の予知能力のようなものを、ナジャが働かせる次のような場面がある。

ナジャの視線が今度は建ち並ぶいえいえをひとわたりするが、「見て、ほら、あそこの窓。暗くなってるでしょ。他のとおんなじに。でもよく見ていて。あと一分もすると明かりがつくわよ。そして赤くなるわよ、あの窓」。一分経つ。窓に明かりがつく。本当だ、その窓には赤いカーテンがかかっている。ぼくはこのことが、人が信じられることの限界を超えているのではないかと思うが、それはそれでいたしかたのないことだ。白状すると、ナジャ同様、ぼくもここで恐怖にとらわれ始める。

私とこの予知夢の話をしてくれたご婦人は、月に一度ほんの10分ほど会話を交わす僧侶と檀家という関係でしかないが、彼女の持つ独特の雰囲気と少し特異な経験が無意識レベルで私に蓄積されて、会話として交されるもの以上の何ものかが、私に「転移」したのかもしれない。「夢のトンネル」を通じて、私は確かに彼女と何かを共有した。「ぼくはこのことが、人が信じられることの限界を超えているのではないかと思うが、それはそれでいたしかたのないことだ」。私は声に出して呟いてみた。

さて、今月もまたKさんの命日に彼女のお宅を訪問した。いつものように、彼女と柴犬のアトムが迎え入れてくれた。彼女はおそらく先月の同じ日に、私に夢の話を語ったことなど忘れてしまっているのだろう。私が到着するや、彼女は言いにくそうに、次のように口にした。

「今ね、朝いつもやってる韓国ドラマがすごくいいところなの。ほんの少し待っててくださらない?」

私が承諾すると、彼女は奥へ下がりお茶と苺をお盆に載せて持ってきた。そして、ぞんざいに苺にコンデンツミルクをかけて、テレビの画面に集中しだした。私はゆっくりと苺を口に運び、テレビを食い入るように観ている彼女の姿を眺めていた。15分ほどの間、テレビの音声と彼女の「わあ」とか「へえ」とか言う声だけが我々の空間を支配した。

「ところで、このドラマいつまで続くのですか?」

「あと、ほんの15分よ。」

「すみませんが、もう消していただけますか。」

ここで私はもうひとつの事実を打ち明けねばならない。彼女の話してくれた予知夢と、その前日に見た私の夢は、驚くほど不思議な一致を示したが、実は私の夢には、ほんの少しだけ続きがあったのだ。それはNさんの死という悲劇的な内容ではきっとないのだが、そこには彼女と柴犬のアトムが登場していた。私は目の前で韓国ドラマに食い入る彼女を眺めながら、ひと月前のその夢の内容を思い出していた。

お勤めが終わり、我々が玄関に行くと、アトムが目を輝かせてしっぽを振って待っていた。彼は朝の読経のあとに、かならず散歩に出ることをちゃんと知っているのだ。私はアトムに先導されて車に乗り込んだ。

「では、来月は今日より少し遅く来させて頂きます。ドラマと重なるといけないですから。」

「悪いわね、そうしてくださるかしら。」

私は、私自身の夢の続きを彼女に告げるつもりはない。ただ、私と彼女のこうした関係はこの先も続くだろうという事は、私と彼女の「夢のトンネル」を通じて知っている。そして、私の夢が実際に予知夢のような役割を果たすのであれば、この後、彼女の身辺には少しだけ変化があるかもしれない。我ながら少しオカルティックな思考だと自嘲したりもするが、「所詮、夢の話だ」という現実的な私がいる一方で、今回の私と彼女のこの夢の一致をうまく理解する方法が分からず、やはりそれはそれでいたしかたのないことなんだと言い聞かせることにしたのだった。

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