仏教では、幽霊や死者の魂、あるいはそれらが娑婆世界の人間へもたらす怪奇現象や予知夢といったものについては、管見の限りでは具体的な教義上の説明を持ちません。例えば、「魂は死後に存在するか否か」という問に、仏陀が「ある」とも「ない」とも答えない所謂「無記」の態度を示した、という話はとても有名です。しかし、我々僧侶は亡くなった方々の命日のお勤めを日々の法務としていますので、我々が衣を着てお宅へおじゃますると、一般の方々はやはり我々の存在を、こういった幽霊や魂の存在と密接に関る存在として捉えられる、ということは十分に理解できることです。
今日も毎月の命日のお参りに、ある檀家さんのお家におじゃましたのですが、その時に少し不思議なお話を聞きましたので、まだ記憶が新しいうちにそれをここに残しておこうと思います。
そこのお家は、ご主人を亡くされて今年で5年目になり、今日がその月命日で、衣を着てお参りにあがると、いつものようにご婦人と柴犬が迎え入れてくれました。沖縄出身のそのご婦人は、今はもう関西に移住されて長い年月が経ちますが、いまだその土地独特のおっとりとした雰囲気と独特のイントネーションを残しておられて、ゆっくりとしたペースでいつも魂やら死者の霊やら、少し不思議なお話をしてくださいます。先ほども書きましたとおり、仏教ではこういったお話には一応の距離を取って接するので、私はそれについて何か意見することなく、ただ座ってお聞きすることにしています。もちろん、少なからず興味はあるんです。
今日も読経のあとお茶を出して下さり、我々の話は一昨年急逝されたNさん (亡くなったご主人の弟さん) のことに至りました。Nさん宅はご婦人のお家から車で10分ほどの距離にあり、そこも同じく私が月参りに行かせていただいています。
「そうそう、私ねえ、Nさんが亡くなる年の初夢にねえ、ずいぶんと不思議な夢を見たのよ。この話はまだほとんど誰にもしたことないんだけど。」
彼女はゆっくりと天井を見上げながら、話をはじめました。
「そう、あれは1月3日の夢だったわ。家のねえ、裏に駐車場があるでしょう?あそこにねえ、車がものすごい排気ガスを上げてバックしてくるの。白い煙がねえ、もくもくと。」
彼女は大きく手を広げて立ち昇る煙を表現してくれました。私は心の中で「これはまた長くなりそうだぞ」などと次に参るお家のことも頭にちらつきながらご婦人の話を聞いていました。
「するとね。ふと車の隣に視線を移すと亡くなった主人が無精髭を生やして立ってるの。そうね、ちょうど3日ほど伸ばしたくらいかしら。その主人の顔を見た瞬間にね、その髭の伸びた顔がねえ、毛穴が見えるくらいに『ばあ』っと私に近づいてきたの。ちょうど映画なんかでアップになるように、ぐぐぐ、っとその顔が一気に私に寄ってきたの。」
彼女は実際にテーブル越しに目をまるまるとさせて私の方へ顔を近づけてみせました。
「その車がバックしてくる先に、孫が両手を上げ下げしてバタバタと手を振っててねえ。まるでその立ち昇る煙を払うように。すると、主人がこちらへゆっくりと3歩近づいてきたの。1,2,3とゆっくりと3歩。孫はそれでもバタバタとまだ手を振ってるの。よく聞くとねえ、バイバイ、バイバイ、と言って手を振ってるのねえ。」
私はすでに次のお参りのことはどこへやら、話に引き込まれていました。
「次の瞬間、主人の顔を見るとねえ、さっきまでの髭面がなくなって、のっぺらぼうになってた。そして、そのまま後ろにすうーっと下がって行って、消えたの。孫はまだ手をバタバタさせて、バイバイ、バイバイ、と仕切りに声を上げてるのねえ。白い煙は空へもくもくと。私はそこではっと目を覚まして、この夢はあまり良くない夢だなあ、と思ったわ。」
彼女は心底困ったことになったものだという顔をして、しばしうつむき、我々の間にはゆっくりとした沈黙の時間が流れました。
「私はねえ、急いで娘に電話して、孫がくれぐれも車の後ろに立つようなことはないようにと話したわ。もちろん、この初夢のことも話してね。するとね、そのちょうど3日あと、Nさんが交通事故に遭ったという電話が入ったの。」
私はすぐに彼女が何を言おうとしたか理解しました。
「そう、主人の3歩ね。あれよ。あれは3日後ということを表していたんだわ。そしてね、あなたもご存知の通り、その事故の3日後の1月9日にNさんは亡くなったの。私はそのときね『ああ、あれはNさんのことだったんだな』って理解したの。車の排気ガスはねえ、あれは火葬のときの煙を表していたんだわ。そして、孫が手を振ってお別れを告げていたんだわ。」
私はもちろん、この予知夢の話について、仏教的にどうこうといった野暮なことは言うことはありませんでした。ただゆっくりとご婦人の話を噛み締めながら、「不思議なものですね」とだけ口にして、荷物をまとめお宅を後にしました。
私は今、午前の法務を終えて帰宅後、またじっくりとこの不思議な話を思い出しながら、この文章を書いています。実は私は彼女には告げませんでしたが、数日前このご婦人が私の夢にも出てきたのです。それもとても不思議な夢だったのですが、あるいは彼女のこうした独特の感覚が、私の無意識下に蓄積されて、私にも不思議な夢を見させたのかもしれません。その私自身の夢の内容は、また長くなりそうなので、ここには書きませんが、夢というのは実際とても不思議な側面を持っています。彼女は夢の話をするときいつも「夢を見させられた」という表現を使います。なるほど、夢は「見るもの」ではないのかもしれません。
彼女の夢の中で、ご主人の髭面の顔がぐっと近づいてきて毛穴のアップになったその映像が、くっきりと私の頭の中に焼き付いています。さて、今宵はどんな夢を見るのでしょうか。