私は幸運なことに、伯父に真宗の世界ではたいへん有名な藤元正樹先生がいます。先生は学問だけでなく、書や絵など芸術の方面にもたいへん通じておられたそうです。自坊にも先生のお書きになったものがいくつか残っているのですが、先日ふと座敷に置いてあった先生の書の一つが目に入りました。お恥ずかしながら、いくつか崩し字が読めなかったので以下の様なツイートをしてみました。
これお恥ずかしながら読めない。。。どなたか正確に読めますか??大智度論にはそのままの文はないと思います。要点なのかな。。 pic.twitter.com/CI7R2kkDaT
— AMA Go (@go_ama) 2014, 2月 23
すると有識者の方からリプライをいただき、これは以下の字であると教えていただきました。ありがたいことです。
仏説般若
波羅蜜中
不可計我心
不可分別諸法
但行衆善
是事為難
大智度論
釈正樹書
この先生の書は『大智度論』の次の箇所に基づいていると思われます。
今佛説般若波羅蜜中. 不應計我心. 不應分別諸法. 但行衆善是事爲難1.
意味は概略次のように取れると思います。文脈を見るため、すこし前のところから見てみます。後半が上の智度論の拙訳です。
もし人が我心にとどまれば、諸法に善・不善を分別して、善を行い不善を避けようとするだろう。しかし、
今、仏は『般若波羅蜜経』の中で「我心を計すべからず、諸法を分別すべからず」とお説きになっている。その場合、ただ諸々の善を行ずること、このことさえも為し難いということになろう。
おそらく藤元先生が強調したかったのは「衆善爲難」という語のように思います。
我々凡夫が世の中のことを、これが善でこれが悪だと勝手に分別し判断し、自分の分別に基づいて善だと思い込んでいることを行って、悪だと思い込んでいることを避けて、善人ぶった顔をしていい気になっている。しかし如来は『般若経』の中で「我を離れ、分別を捨てよ」とおっしゃっている。罪悪深重煩悩熾盛の凡夫の身を自覚し、自力でなんとかしようとする我を離れ、無明に基づいた極めて不確定な分別を離れよ。われら凡夫にとってはただ「衆善爲難」なのだ。ただ阿弥陀の本願に身をまかせよ。そのような内容をこの智度論の文章から先生はお読みになったのだと愚察します。
ちなみに、近代デジタルライブラリーで この箇所の『国訳大蔵経』所収の訳 を参照しました。Twitterで疑問を投げかけ、すばやい反応をいただき、該当文を SAT で大蔵経検索して、国訳大蔵経のデジタルデータをオンラインでさっと確認する。便利な世の中になったものです^^;
国訳大蔵経の該当ページをプリントアウトして先の智度論の箇所の飜訳にマークを付けておきました。
藤元先生がご逝去されたのは2000年のことですが、その頃私はまだ大学へ入ったばかりで、仏教の勉強も本格的に始める以前でした。お寺の法務にもほとんど関わっていない頃です。さらに、先生のご著書やこういった書などに興味を持ちだしたのはつい近年のことです。私の藤元先生の記憶といったら、ずっと小さい頃に龍野のお寺におじゃました時の、あのなんとも近寄りがたい雰囲気だけです。いや、もっと正確に書けば、幼少の私がそういった印象をもったのは、周りの大人たちが「ぼんちゃん、あの人はごっつい人なんやでぇ。偉いお方なんやでぇ」と口をそろえて私に繰り返していたのも、大いに関係していたんだと思います。先生の周囲の大人たちの異様な緊張感を、幼少の私は敏感に感じ取っていました。
この扇に残された書は、母親から聞いた話だと、先生の娘さんの結婚式のお祝いにお寺を訪問した際に、お返しに目の前でさっと書いてくださったそうです。「ちょっと待ちなさい。今少し用意するから。」と言って、目の前でサラサラと書いてくださったそうです。ここに書かれた字が実際の智度論の字と若干異なるのは、そういった事情によるものなのでしょう。私はその話を聞いて、また、あらためて今この文章の内容を吟味してみて、実に「粋」でかっこいいなと感じました。やっぱり「ごっつい人」だったんだなあとしみじみ感じた次第です。
Footnotes:
T25, 431b12-14, SAT: http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1509_,25,0431