年始に思うこと

2014年、年始に思うこと。

気取っていると思われることを恐れず書くと、人間なんて惨めなものだと思う。いつも何かに取り憑かれて、頭のなかがそれだけになって、そのことに気づきもしないなんて、こうやって冷静に見てみると、なんて滑稽なことなのだろう。怒りたくもないのに怒り、悲しみたくもないのに悲しむ。ほんの一時の楽しみに我を忘れることはできても、またいずれ必ず苦しみがやって来る。

性欲だって惨めだ。こんなものがあるせいで、何度惨めな思いを繰り返してきたことだろう。そして、この先もまた繰り返すんだ。私は男だから、女性の性欲がどんなものかわからないが、少なくとも男の性欲なんて、まったくもって惨めなもんだ。

自分の本当に好きなもの、人生のいい部分だけ見ようとしても、かならずぼろが出る。かならずぼろが出てくるようになっている。ぼろが出てくると、必死になって冷静な自分を保とうとするけど、だめだ。冷静なふりをしている自分がいるだけだ。

何もかも投げやりになったとて、結局のところ生命の力の前では無力で、頭のなかであれやこれや言い訳を作って、楽な道を探してまた生きる。そして、生きることに真剣になればなるほど、ますます欲望は強くなり、喜怒哀楽の感情が表に出てきて、それらの感情に大きく振り回される。感情に振り回されて、苦しんで、言い訳を考えて、また少しずつ進んでいく。いや、進んだつもりになって、生きる。

元旦に朝日を見に、近くの川辺の、いつもの散歩道を歩いていた。鳥達が川面で群れをなして羽を休めていた。彼らにはその朝が元日の朝であることは関係ないだろうが、寒い寒い夜を超えて、ようやく朝日を得た喜びは、少なくとも感じているように見えた。

朝日が少し強くなってきた頃だろうか。その中の一羽が、おもむろに川上に向かって、ゆっくりと動き出した。するとそれにつられるように、他の鳥達もゆっくりと川上に向かって動き出した。少しづつ、ゆっくりと、川面の鳥の群れは川上に向かって動き出した。金色に輝く水面を、まばらな黒い点の集合が、緩やかに移動しはじめた。

asahi_2014.jpg

私はそれを眺めながら、彼ら鳥達には一羽一羽に自我なんてないんだろうな、と感じた。ふとしたきっかけで、一羽が動き出し、それにつられて全体が動き出す。一つの集団としての生命を生きているように見えた。もしも私が、彼らのうちの一羽としての命を生きていたならば、同じように集団の動きに合わせ、ゆっくりと川上へ流れていったことだろう。私は、自分が鳥になって、極寒の水面を、ゆっくりと流れている姿を想像した。想像の中の鳥である私は、温かい朝日に照らされて、生命の幸福感に浸っていた。私はその想像をしばらく楽しんでいた。

さらに日が少し昇った頃、私はふと視点を自分自身へと戻した。人間である私自身の視点へ。すると、私自身もなんらこの鳥達と変わらないことに思い至った。大きな集団の一部として、流れに任せて生きる自分自身の姿が、鳥達の姿に照らし合わされて、浮彫になった。私は私の意思であれやこれや決定しているように思っているけど、それだって実際には、私が人間として、私の両親から生まれ、この環境で暮らし、今の人間関係に囲まれているからこそ、下している決定に過ぎないのだ。私自身が、何者にも影響されずに、独自に決定した選択肢なんて、どれひとつない。集団の中の一羽の鳥なのだ。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」

「縁起」は仏教の根本的真理である。仏教では我々の存在は縁起である、と説く。我々には固有的な実体はなく、常に生滅変化し、それそのものとしては空であるが、縁起的な存在として今ここにある。縁に左右されて、今ここの我々の存在がある。すべては実に縁起なのである。

私はこの朝、自分が鳥になる想像を通じて、縁の強烈な力を感じた。私がこうして元日の朝に散歩するのも、鳥たちがふと川上に向かうのも、すべて縁の力によるものなのだ。そうした縁起的存在である私は、私の愚鈍さゆえに、そこに仮りそめの自我を思い描いているに過ぎないのだ。

そうしたことを考えていると、気持ちがすうっと楽になってきた。がちがちに固まった愚鈍な頭の私であるが、その重い塊から一瞬はなれることができた気がした。感情というとても厄介なものに振り回される惨めな私から、少しだけ解放されたような気持ちになった。さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。

無始時來よりなる私の罪悪は甚だ深く、煩惱は薪のように赤々と燃え盛っている。度し難く救い難い私は、宿業という強烈な力の前で、自身の微塵ほどの能力で人生に足掻いたとしても、そこに救いに通づる道はない。私はただその時々の縁に従って、細心の注意を払って、今の生を生きるだけである。苦しみを重ね、惨めな思いを繰り返したとしても、それを忘れるでもなく、固執するでもなく、業縁存在を生きるのである。常に生滅を繰り返す無常なる世界の中で、強烈な縁の力に突き動かされながら、投げやりになるでもなく、あらがうでもなく、ただ不放逸にして生きるのである。そして、たまたま今ここで仏教徒として生きている私は、遠くその宿縁に感謝しつつ、仏法に照らされながら、怠ることなく日々を生きなければならないのである。

元日の朝に、群れの中の一羽の鳥になった私は、たまたま雲間から見えた朝日の光の恍惚感に浸りながら、無限の縁の力に引っ張られている私を強烈に意識して、しばし自分を忘れ、こうして想像の中で、ゆっくりと川上へと流れる自分自身を楽しんでいたのだった。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください