「ひとえに他力」ということ

『歎異抄』第八章では念仏は「非行非善」であると定義され、「ひとえに他力」なものと説明されます。

念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々。

現代のことばに翻訳してみます。

念仏とは、それをとなえる者にとって、行でもなく、善でもありません。わたくしのはからいによって行ずるのではないので、「行ではない」といわれます。わたくしのはからいによってつくる善ではないので、「善ではない」といわれます。〔念仏とは〕ただただ〔弥陀の御はからいである〕他力によるものであり、〔わたくしのはからいという〕自力を離れているので、念仏をとなえる者にとって、行でもなく、善でもないのです — とおっしゃられた。

ひとえに他力。学ぶという行為は常に自主的ですが、真宗の教義に本当の意味で出会うのは、常に自主的ではない場所です。「わたしは真宗教義を学んでいる」といった (時に自惚れた) 自覚があるかぎり、常に教義の方から見放されるような教えです。そういった自覚から徹底的に離れて、教義に出会うときにはじめて、学んでいる教義が真に救いを伴った教義となるような教えです。私達は常に自分の頭で考えようとしますので、自分の頭で考えていると思わないこと、これが実に難しいのです。

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