悪人正機説とは『歎異抄』第三章に見られる「善人なおもて往生をとく、いわんや悪人をや」という有名な一節に代表される教説です。「善人ですら往生できるのだから、悪人は往生できないはずがない」という、一般的に考えられる論理とは反対の内容を持ち、はじめてこの文章に触れる人に強烈なインパクトを与えます。
浄土真宗と言えば『歎異抄』、『歎異抄』といえば悪人正機、とまで言われるこの有名な説ですが、できればよくありたい・善人でありたいと願うのが我々の常ですから、いささか理不尽であるようにさえ思われます。善人より悪人が救われる、とはどういうことでしょうか。『歎異抄』第三章は次のように続けます。
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
およそ次のように意訳できると思います。
煩悩を完全に身に備えている私たちは、どのような修行を行ったところで、生まれ死にを繰り返す輪廻を離れることは決してできません。〔弥陀は、そのような私達を〕哀んでくださって、〔罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけようとの〕本願を起こしてくださったのです。〔その弥陀の本願の〕本当のねらいは、〔救うのが容易い善人というよりむしろ、救うのが困難な〕悪人を成仏させるところにあるので、もっぱら他力を頼み申し上げる悪人であるということは、最も往生へと至る正しい原因であります。このことから「善人でこそ往生します、まして悪人が〔往生するのは言うまでもないでしょう〕」と〔親鸞聖人は〕おっしゃったのです。
罪深く欲望の激しい凡夫をターゲットとする阿弥陀の救いの手 (本願) は、一生懸命自力で善をなそうとする人よりもむしろ、阿弥陀に一途に助けを求める悪人に、まずもって差し伸べられる、と解説されます。
暁烏敏先生の著書 (暁烏敏全集 第6巻, pp. 75–76) に、この悪人正機説を例えた次のような比喩が書かれてありました。
今ここに溺れている二人の人がいます。そのうち一人は板を持っており、今一人は何も持っていません。このとき、救助船が来て助け綱を出せば、どちらが先にその綱に手を伸ばすでしょうか。板を持つ人は、板 (= 善) を手放さないかぎり綱 (= 弥陀の本願) をつかめません。一方で、空手の人はすぐにでも綱 (= 弥陀の本願) に手をのばします。また、板を持つ人は多少の余裕があり、持たない人は余裕がありません。この道理によって、板を持つ人 (= 自力作善の人) は空手の人 (= 善を為してこなかった悪人) よりも救済にあづかり難いということが味わわれる、ということです。
非常にわかりやすい比喩で、なるほどなと感じながら読んでいました。
助け綱 (= 弥陀の本願) 自体は、板を持つ人 (= 善人) にも、板を持たない人 (= 悪人) にも平等に差し伸べられるのですが (老少善悪のひとをえらばれず)、急いで綱に手を伸ばすのは板を持たない人 (= 悪人) でしょう。この人には、この綱が唯一私を救う手段である、という確信 (= 信心) があります (ただ信心を要とす)。一方で、すでに板を持っている人 (= 善人) は、その手にしている板 (= 積み上げてきた善) を手放して、新たな救済の手段である綱 (= 弥陀の本願) にすぐさま助けを求めることにためらいがあります。だから、溺れる (= 生死を離れることあるべからざる) 人にあって、綱を頼みにする空手の人であるということ (= 他力をたのみたてまつる悪人) は、もっとも溺れから助かるための原因である (= もっとも往生の正因なり) と理解されるのです。
この喩えでは、「海」は生死輪廻するこの娑婆世界です。娑婆世界から救い出し、法藏菩薩を乗せたこの船は、さしずめ「浄土丸」とでもいうべきでしょうか。。。