自分の考えとは何か

歎異抄という浄土真宗の思想を代表する有名な書物に関して、この書物が親鸞自身の著作でないということは注意すべきである、という指摘はしばしば聞かれます。もちろん、これが親鸞の直接の語であることは疑いようもない事実ですが、その言葉は同時に、歎異抄の著者唯円というフィルターを通した言葉である、ということを忘れてはいけない、という指摘です。

なるほど、学問的には、ある書物が、それが思想史上価値あるものであればあるほど、誰の手によるものである、ということは重要な点です。しかし、実際に、その人物のどのような思想がその当時の人々に受け入れられていたか、ということを知るには、その人、当人が著した書物よりも、その人の思想を代弁する第三者が記録した書物の方が、より説得力をもつ、ということも事実であるようです。

この歎異抄と同様に、釈迦の説法が集積された『阿含経』も釈迦その人によって直接書かれたものではありませんし、『臨済録』などもその部類です。いずれも師の思想が真に生きたものであれば、必ず生きた記録者が歴史に要請されているように思われます。そして、そうして残された書物は、師その人の書物以上に、師その人の思想を表すものとして、後代の人に受け入れられてきたのです。

多数の人の心を動かしたある時代のある人物の思想というものは、その人自身が残した書物そのものの中ではなく、むしろ、心動かされた第三者の記録という形でこそ、本当に伝えうると言えるのかもしれません。

そして、この事実から翻って考えてみると、我々個々人の考え、というものも、我々個々人それぞれの中で完結するものではなく、第三者の中で消化されてはじめて、我々自身の考えとなりうる、と敷衍させてみることもできるような 気がします。

とかく、どうしても自分の考えというものは自分の心の中にあって、それで完結している、と考えがちですが、真にそれが自分自身の考えとなるには、それが他者にさらされて、受け入れられて、その時にはじめて自分の考えとして成立する、と言えるのかもしれません。

昨日、歎異抄の研究会があって、その場で、親鸞と歎異抄の関係を議論しながら、こうしたことを漠然と考えていました。

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