犯罪者や仏教を批判する人は念仏で救われるか?

浄土真宗では、一切の人々は念仏によって救われると教えられます。なぜならば、正依の経典である『大無量寿経』に説かれている本願は、罪が深く欲望の強い人たちをも含みすべて救済しようとする願いだから、とされます。そこで説かれる四十八願の中でも特に重要視されるのが第十八願で、それは次のようなものです。

たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

四十八願とは、法蔵菩薩が仏となる前に立てた願で、「これら48の項目が成就しないうちは私は悟りには至りません」という誓いです。この第十八願では「あらゆる衆生が浄土に生まれたいと願って十声の念仏を唱えれば必ず浄土に生まれるようにする」ということが誓願されています。それに続いて「唯五逆と正法を誹謗せんをば除く」という文章が続きます。すなわち、「すべての衆生は念仏すれば浄土に生まれるが、ただし五逆の罪と仏法を誹謗する者は除く」とあります。これはいわゆる「唯除の文」といわれ、古来多く論じられてきた箇所ですが、他宗派からすれば、浄土真宗は『無量寿経』を正依の経典としているが、この唯除の文は無視しているのではないか、と非難されるような問題箇所でもあります。

「五逆」とは、いくつか解釈はありますが、一般的には、父・母・阿羅漢 (仏教の聖者) を殺すこと、仏教僧団の和合をこわすこと、仏の身体を傷つけること、の5つとされています。「正法誹謗」とは文字通り、仏教の教義を批判する人のことです。 仏などおらず、仏法などなく、菩薩などおらず、菩薩が説く教えなどない、と信じる人です。自分で考えそう思っている人も、他人の考えに従ってそう思っている人も、そう心で確信している人は皆「正法誹謗」と言われます。

無量寿経に限らず、多くの大乗経典には、これら五逆の犯罪者と仏教を批判する人は、救いの対象から外される、と書いてあります。一方で、淨土真宗では、一切の「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」は往生と遂げる、と言われます。もちろんここで言う「一切」には、犯罪者も仏教批判者も含まれます。さて、我々浄土真宗では、この箇所をどう理解するのでしょうか。

この議論は教行信証の信の巻 (p. 272 から) に見られます。まずは、問題提起から。

それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。今『大経』には「唯除五逆誹謗正法」と言い、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人」(如来会)と言えり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には、難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

まとめると次のようになります。

1. 大経: 唯除五逆誹謗正法
2. 如来会: 唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人
3. 観経: 五逆の往生を明かして謗法を説かず
4. 涅槃経: 難治の機と病とを説けり

これらの経典にこうした文言があるのはどう解釈したらいいのか、と問題提起されます。それに対して、まずは曇鸞の『淨土論註』が引かれます。ここでは、細かい議論が行われていますが、大まかにまとめると、あくまでも救われるのは五逆のみで、謗法は往生できない、という趣旨のようです。その理由は、仏教を批判しているのに、仏教の教える浄土に生まれるはずがないから、と書かれています。まことにもっともな理由です。そして、五逆という殺人罪を犯してしまうのは、そもそもの根本原因は仏教を信奉していないところにある、とも言われます。したがって、謗法がより根源的な罪である、とされます。繰り返しますが、ここでの曇鸞の解釈では、「謗法」は救われない、と書かれてあります。

次に善導 (光明寺の和尚) の観経疏が引かれます。ここに有名な善導の「抑止門」(おくしもん) という解釈が出てきます。無量寿経に「唯除五逆謗法正法」とあるのは、

この義仰いで抑止門の中について解す。

と解釈されます。すなわち、この無量寿経の唯除の文は、こうした重大な罪を犯さないよう「抑止」するために置かれている、と解釈されます。「抑止門」とは「摂取門」の対義語で、如来が衆生を悪に入れないため、慈悲の気持ちをおさえて悪を戒める、という意味です。つぎにこう続きます。

ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり

ただ如来はこれらの罪を犯してはならないと心配して、方便で往生を得ない、と言っただけであって、彼ら重悪人を摂取せず浄土に生まれさせないということではない、とされます。

観無量寿経では、有名な王舍城の悲劇が説かれますが、ここに登場する阿闍世は父親殺しとして五逆罪を犯した代表人物として描かれます。彼は父王を殺したあと、罪悪感に苛まれますが、仏陀の法によって「無根の信」を得て、仏教の信者となり、救われていきます。すなわち、五逆を犯したものが救われる、と説き示されていることになります。この観経に、謗法が救済される様子が描かれていない点について、善導は次のように語ります。阿闍世は五逆はすでに犯してしまっているので浄土に生まれるものとして摂め取られ、一方で、謗法はまだ犯していないから、ここでは描かれていない、と。もしも阿闍世が謗法を犯してしまっていたなら、それでもなお救いの対象として摂め取られるはずである、と善導は付け加えます。

こうした散善義での善導の解釈を受けて、親鸞自身は尊号真像銘文 (p. 513) に、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

無量寿経の唯除の文は、五逆の犯罪者を嫌って、仏教を批判するという重大な罪を知らせようとするためであり、この2つの罪が重い、ということを示して、実際にはこれらの犯罪者・批判者をも含んだすべての衆生が念仏により往生する、と説かれています。

(つづく…)

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