「ライフログ」という言葉が人口に膾炙するようになっていくらか時間がたちますが、ここ数年のデジタル技術の発展によってライフログをより簡単に記録・共有するサービスが普及するにつれ、この分野への関心もますます高まっているようです。先日は NHK で 自分の人生、どこまで記録? という特集も放送されました。ソーシャル・ネットワーキングサービス (SNS) を利用して、日々の生活 (ライフ) の記録 (ログ) を公開する人の数は毎年かなりの割合で増えていっているようです。記録される対象は多岐に渡り、日記や一緒にいた人、出会った人、音楽や写真、読んだ本、食べたものなどをはじめ、GPSで取得した位置データ、電車の乗り降り情報、立ち寄ったレストラン、宿泊したホテル、健康状態、睡眠時間などなど、あらゆるものをライフログとして残し、それらを共有しようという動きがあるようです。
今は SNS を利用して「自主的に」公開したいと思った記録を残すという方向ですが、これが自主的ではなくなったらどうなるのだろうと、私などはどうしても考えてしまいます。つまり、個々人の日々更新される日常生活のあるゆるものがデータ化されて「社会的に」管理される、というような状況です。その人の生まれてから現在までの交友関係、教育課程、思考、行動パターン、行動記録、趣味趣向、発言、見たもの、聞いたこと、食べたもの、健康状態、病気… それらが個人情報として日々更新され管理されるようになったら… このような世界は SF ではよくある設定かもしれませんが、それがいよいよ現実的に可能になってきて、空恐ろしいような感じもするのです。
もちろん、このような個々人のライフログデータを巨大なサーバーで保存するようになった社会では、日々の生活は今まで以上にシンプルで便利にはなるでしょう。毎日の食事や健康管理はサーバーからの情報をもとに決定されるでしょう。「ビタミンB1 の不足しているあなたへの今日のおすすめの食事は… おすすめのレストランとオーダーすべきメニューは… 」といった情報が送られてきます。娯楽の情報も事欠かないでしょう。これまでに行ったイベントでの満足度が記録されていて、「あなたの趣向にぴったりの週末のイベントは… 」とお薦めしてくれるでしょう。好みや趣味も記録されるのですから、「あなたと相性ピッタリの今時間をもてあましている女性は… 」といった情報も与えられるかもしれません。あるいは「あなたの生涯のベストパートナーは… 」という提案もあるでしょう。個人の位置情報が常に把握されているので、これらの情報にはつねに現在地から目的地への移動手段が付け加えられるでしょう。また、行動や思考パターンも記憶されるわけですから、犯罪者には彼が犯罪を犯す前になんらかの手段が講じられるでしょう。
このように利点と思しき点もいくらか想像できますが、一方でこのようなあらゆる個人情報を管理される社会は、人間らしさを奪われた恐ろしい社会であるようにも感じられます。今は、あくまでもこうしたライフログが社会によって管理されたら、と仮定した時の話ですが、今実際に SNS のブームによって起こっていることもこうした SF の世界とそれほど遠くないと言えるかもしれません。つまり、現在これらの個人的な情報は SNS を通じて Web 上にどんどん投げ出され、サービスを提供する側もそれらのネットワーク上に投げ出された情報をもとにその人に最適な情報を提供する、という方法が確立されつつあります。SF の世界との違いは情報を発信する側が自主的かそうでないか、だけなのですが、実際には情報を発信する側が意図せざる情報も Web 上に漏れてしまう、というケースも報告されつつあります。
また、私達が自分自身の生活のすべての記録を取るようになると、「忘れる」ということがなくなります。実際には人間がそのことについて忘れていても、機械が記録していますから、そのデータを検索すればいつでも好きなときに引き出すことができます。すっかり忘れてしまった「小学生の頃の国語の教科書の挿絵」をライフログからいつでも引き出せるのです。一方で、忘れてしまいたい「学生時代に失敗した告白」の記録にもいつでもアクセスできてしまいます。良い記憶にしろ悪い記憶にしろ、すべて残ります。そのうちに私達はこうしたことができることに慣れてしまうかもしれません。過去の記憶がデータとして残る、ということが当たりまえのことになるかもしれません。そうなった時は、もはや「懐かしさ」といった感覚はなくなるでしょう。おぼろげな記憶というものはなくなり、自分自身の記録 (過去のデータ) をドライに見つめるようになるでしょう。常に「我、然り」と自分の人生を全肯定できる「超人」へとなるのかもしれません…