宗教体験という現象に神経学的立場からアプローチしたユージーン・ダギリ氏らの著書『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 を古本屋で見つけたので購入してみた。チベット仏教の僧侶の深い瞑想中にある脳波を調べ、瞑想体験中の彼の脳に何が起きているのかを科学的に解き明かそうとする。
彼らの研究によると、日常的な脳の活動と宗教体験中のそれとの顕著な違いの一つに、脳の「方向定位連合野」の活動状態があげられると指摘する。方向定位連合野とは脳の頭頂葉の一部であり、この領域は自分と他人を区別する、などの空間的な情報を把握する機能を担っているという。この領域の活動が外部からの感覚が遮断されることによって特別な状態になることが、宗教体験や神秘体験と深く関わりあっているという。自己の感覚を作り出し、それを空間内で位置づける方向定位連合野から、瞑想などによって日常的な情報が遮断されることによって、自己と他者との区別があいまいとなる。これが、宗教体験者が語る絶対的合一 (自己よりも大きなリアリティーとの合一) の感覚を生み出すのではないか、と提案するのである。
古今東西の文献に残される神秘家の言葉によると、こうした絶対的合一の体験は現実よりもリアルなものである。本書では、こうしたリアルな感覚は、頭頂葉の領域にある方向定位連合野への感覚的な求心路の遮断と相関関係にある、と主張される。では、こうした脳内の方向定位連合野の求心路遮断によってもたらされる神秘家の体験の対象は、われわれが日常的に体験する対象と同様にリアルなものであろうか。神と、我々の日常的な対象は、同様にリアルな対象であろうか。あるいは、どちらが真にリアルな対象であろうか。最終章では、我々は何を基準にリアルなものとするのか、というより哲学的な問題に焦点は移る。
仏教者の立場としては、神経学的に宗教体験の根拠を求め、それが方向定位連合野という「自己と非自己を区別する」脳内の領域にある、と仮説されたのは、非常に興味深い。なぜなら、仏教の悟りとは、とりもなおさず「無我」という語で表現されるのだから。「無我」を体現し、仏にまみえた仏教者たちは、その悟りの体験の後、世間は偽りでただ仏こそが真実である (世間虚假 唯佛是眞)、と語る。仏を見るとは無我を体験することに他ならない。「無我」を体験した彼ら修行者にとって、無我を体験する以前の日常的経験はすべて虚假である、と実感させるほどに、その体験は強烈でリアルなものである、という。
仏教のスタート地点は、この世は苦である、というところである (一切皆苦)。そして、仏教の悟りとは「縁起」の真理を悟ることである。縁起とは、この世の中のすべては何かしらの原因によって起こっている、ということである。
さて、そこで、この世は苦である、という現実を見つめる。この苦しみの原因は何か (縁起)、ということを探求していく。そうして行き着いた苦しみの最終的な原因を「無明」と位置づける (十二支縁起)。無明とは、明るさがないこと、すなわち、この世界について何も知らないこと、無知なこと、である。我々が苦しんでいるのは、我々がこの世界について無知であるからである。したがって、このような元来無明な我々が感知する世界は、例外なく虚假なのである。根源的に無明な「我」を放棄しようと、虚假なる世間を捨て、出家し修行し瞑想する中で、仏教修行者は「無我」の境地を体現していった。
それでは、こうして無我を体験した仏教者 (菩薩) の目には、虚假であるはずのこの日常世界はどのように映るのだろうか。悟りを経過した菩薩たちの目にもやはり、この世界はいままでと変わらず存在する。彼らの目には、今までと変わらず、柳は緑、花は紅に映る。そうしてこの世界で菩薩たちは、今度は自分たちの体現した法を民衆に説ていくのである。
(イメージは 十牛図 – Wikipedia より)