彼岸会法要にて

歎異鈔 (後序) に次のような有名な言葉がある。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
と御述懐候ひし…

「ひとへに親鸞一人がためなりけり」を彼岸会法要の場にてお話ししようと思っていたが、どうもうまくいかなかった。途中で自分の話す内容がまったく伝えられていないということが伝わってきて、しまいには支離滅裂となってなんとも情けないことだった。

私は概略次のような内容をお話ししたかった。

私は変にプライドが高いところがあって、それでどうも苦しんできた。正信偈では「邪見憍慢悪衆生」と言われる。憍慢はたいへんやっかいな煩惱で、仏教ではこれを除けと言う。一方で世間では「誇りを持て」とも言われる。プライドは捨てるべきか捨てざるべきか。

いやいや、実に人間プライドを捨てられないのである。では、堂々とプライドを持つべきか。自分は特別だと考えるべきか。私はそう考えてもいいと思う。自分は特別なのである。

しかし、他に比して自分は特別だ、というのではない。自分に頑として誇りをもたざるを得ない、という点で阿弥陀は私を見放さない、そういう意味で特別なのだ。

「親鸞一人がため」からそういうところへと話を運びたかったが、こうして文章にすればなぜ失敗したかよく分かる。自分の中でもまったくまとまっていないのである…

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