中島町

中島町の起源

元禄年間 (1688~1703)、京都の丁子屋の中島市兵衛という方が、現在の大阪市西淀川区中島町に当たるこの地に志をおこして新田を開きました。開拓者中島市兵衛の名から当時この新田は「中島新田」と呼ばれており、その名残で現在でも中島町という地名が付いています。地理的に神崎川と中島川に挟まれており、ちょうど中洲のようになっているので「中島」という地名である、というのは誤りです。「了願寺過去帖」によると、平野郷泥堂町 (現在の大阪市平野区) にあった了願寺は「元禄元年寅の年」 (1688年) にこの地に移ってきたと記載されてあります。了願寺はこの時の住職教西法師をして中興の祖としていますが、教西と中島市兵衛は血縁関係にあったと伝えられています。

了願寺墓地内にある「丁子屋中島市兵衛碑」。

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外島保養院

現在の中島2丁目北西部には「外島保養院」というハンセン病患者の施設がありました。1909年開院のこの施設のためにここに約2万坪の土地が買収されたといいます。初代施設長として 今田虎次郎 が就任しました。堤防と土手に囲まれた海抜0メートルの外島の土地は、造成のためさらに敷地内の土が掘り下げられ、その土を盛り上げることで出来上がったと言います。そのため、敷地内には至るところに池が出来て、ほとんど海 (大阪湾) に流れることがなかったそうです。さらに1931年には収容患者を増やすため新たに4万坪の土地が買収され、拡張工事が行われていました。このような不安定な土地の状態が後の大災害を招くことになります。

現在この地は中島2丁目に含まれているのですが、当時は中島と外島は海で隔てられていました。広大な面積の外島のハンセン病隔離療養施設の外側には畑が広がっており、そこには中島の町民も自由に行き来でき、そこの畑を耕していたそうです。村田正太 が二代目院長に就任する頃には、かなり施設の設備も整えられ、患者には文化活動やスポーツが推奨され、図書室には一般書から哲学書までが常備されていたということです。ところが1934年、拡張工事の完成目前であった施設は、室戸台風の襲来を受け、その立地条件と無理な造成による脆弱な土地の状態も悪因となり、計187名の死者を出し (入所者173名・職員3名・職員家族11名)、その後入所者は他の施設に預けられました。施設自体は岡山県の「長島」の西端部に移動し、名称も「光明園」と改められ、1938年落成式典が挙行されました。現在も 国立療養所邑久光明園 として岡山県長島で多くの患者の療養所となっています。

中島2丁目の工業団地の端の中島川の堤防沿いに、フェンスに囲まれて「外島保養院記念碑」が見られます。この記念碑は平成八年の「らい予防法」廃止に伴い、強制収容絶対隔離を根幹として日本のハンセン病対策の終焉を記念して平成九年 (1997年) 十一月十九日に邑久光明園入園者自治会により建立されたものです。

海から突き出る不気味な煙突?

現在の中島2丁目に位置していた外島は、室戸台風による被害のあと埋め立てられ、そこには大谷重工業や油谷造船などの巨大な工場が造られました。しかし、第二次世界大戦の空襲により破壊され、堤防も決壊し、結果、水浸しになりました。加えて、戦後昭和二五年 (1950年) の ジェーン台風 によってそれらの工場はさらに水没し、高い煙突だけが水面から頭をのぞかせる、という奇妙な光景ができあがったそうです。この海から突き出た煙突は昭和三〇年頃までそのまま残されていたそうです。海から煙突だけが突き出たその姿は、その後新しく生まれてきた世代の想像力をかきたたせるものがあったでしょう。今も、この世代の中島の住人には有名な話だということです。

その地は、昭和四〇年前後に埋立てられ、そこに中島工業団地 (中島二丁目) が造成されました。現在は工業団地として、駒井鉄工などの大きな企業も創業しています。

当時は数本の煙突が海から突き出た奇妙な光景が新聞などにも掲載されていたようで、こうしたところから噂は尾ひれをつけて、「中島地区の工場は徐々に海に沈んで行き、煙突だけが海から顔をのぞかせていた」というような伝説めいた噂が流れるようにもなりました。

中島新興住宅地

阪急電気鉄道は、かつてバブル期に、この中島地区に高層マンションや大型商業施設を開発する計画を立て話題を呼んだことがあります。「大阪マンハッタン構想」と呼ばれたこの都市計画には、中島の「マンハッタン」と中心街を結ぶ阪急線の延伸ということまで含まれていたそうです。ところが、バブル崩壊によって急激に地価が下落し、計画は頓挫しました。長らくこの土地はバブル崩壊の傷跡として「塩漬け」状態でした。

しかし近年、阪急電鉄はこの土地の開発計画を再始動しました。かつてのマンハッタン構想のような壮大な都市計画は夢と消えましたが、平成18年10月に阪神電鉄との経営統合をきっかけに、再びこの中島地区の都市開発事業に着手したのです。平成21年に開業予定であった 阪神なんば線 もその宣伝に加わり、阪神沿線上の新しい町として再び売り出されることとなったのでした。

まず、平成19年3月にマンションや住宅を開発する目的で土壌対策工事が開始されました。市況が低迷する中、当初の計画にあった高層マンションの開発は先送りされ、甲子園球場5個分にあたる旧ゴルフ場 (大阪リバーサイドゴルフクラブ) 跡地と件の土地 (合計約 21 ヘクタール) のうち、東側の約半分 (約 9.7 ヘクタール) から先行的に開発がスタートしました。現在、戸建て住宅・道路・上下水道・公園 (川北中央公園) の整備工事は完了し、販売も開始され、すでに住民の居住がはじまっています (大阪中島公園都市 ハピアガーデン四季のまち)。

都市計画には保育施設、医療施設、物販店舗などの整備も含まれていますが、2012年5月現在、いずれもまだ開業には至っていません。また、サッカー場や野球場、多目的広場など、いくつかの公共施設も現在建設中のようです。中島公園都市のキャッチフレーズには「心を豊かに育み、中島を新たなステージへと導く街」とありますが、さて今後が楽しみなところです。

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