歴史

了願寺過去帖

原文

正三位中将正成の執権安間の了願開基する所也。

正成湊川にて忠死 (延元元年一三三六年) してのち、隠遁の志頻 (しき) りにして、ひそかに摂州住吉郡平野郷に閑居し、ついに一刹を同所泥堂町 (でいどうちょう) に創建し、即ち了願寺と号して真言の道場を開く。それよりこのかた星霜を経て頃は慶長一九年 (一六一四年) 寅の年、時ならぬ戦火にかかり、おしいかな諸宇ことごとく灰燼せり。

ここに河内国若江郡萱振 (かやふり) 村恵光寺は、同国久宝寺 (きゅうほうじ) 村顕証寺と互いに本末雌雄の争いをおこし、本寺に対し伏せざるの儀あって、ついに東派の本廟に帰参あり。この時本寺より抱地 (かかえち) を賜う。即ち平野郷泥堂町迎春寺これなり。これによって貞亨四年 (一六八七年) 晩冬萱振を辞して平野に移れり。然るに同院恩賜の地狭少なるによって、了願寺の旧地を乞う。

ここに又その頃、京師の中島市兵衛なる者、志をおこして新田を開く。その時当院の住職教西法師、俗称は即ち中島氏の子孫なれば、ここにおいて教西深き由あって、乞うに任せてすみやかに旧地を寄付せしめ、元禄元寅の年 (一六八八年) 件の所以をもって、ただちに旧跡を退き当中島新田に移れり。

さればその頃開発に間もなき新田のことなれば、檀家なども未だ得ざれば、地主中島氏より親属の廉をもってとり合えず、米三石六斗を寄進せり。これによってこのかた年々際々これを規矩 (きく) として永世おこたることなし。

而るに後年由あって地主を泉州唐金屋新吾右衛門に譲るといえども、なお件の寄付米前提の如くさらに異変なし。加之 (しかのみならず) あまつさえ仏供料の田等寄付のことあり。これによってたとえこの地主何人に譲る共この寄付米三石六斗は総高の内に直引する所なり。以来世々の地主はこの規定を取定めて敢えて異儀をあるべからず。

しかればその昔さらに密宗を出でて真宗に入り、以後当派の末学として連累相続せり。かつて住吉当院の援守として春日明神をあがめり。即ち五尺四方の地今現に恵光寺の境中に残れり。これ専ら旧跡を示すべき印なり。釈筵を巧ちせず伝え、無上の法味をあじわって年に増し日に増し隨喜の渇仰の頭をかたむけ、門檀の数も増せり。而るに法燈の影は明らかにして清流の波かがやけり。

現代語

〔当院了願寺は〕正三位中将であった楠木正成の執権安間了願が創立したところの寺院である。

楠木正成が湊川で忠義を尽くして亡くなった (延元元年1336年) のち、〔安間了願は〕隠遁したいという気持ちを抑えきれず、ひそかに摂州国の住吉郡平野郷 (現在の大阪市平野区) に移り住み、ついに同所平野郷の泥堂町に寺院を創建して、了願寺と名付け、真言宗の道場を開いた。それからいくらか歳月が流れ、時代は慶長一九年 (一六一四年) 寅の年に、思いがけない戦火 (大坂冬の陣) に見舞われ、残念なことにもろもろの建物がすべて灰燼に帰してしまった。

ちょうどこの頃、河内国の若江郡萱振村 (現在の大阪府八尾市内の一地域) の 恵光寺 は、同国の 久宝寺 (現在の大阪府八尾市内の一地域) の 顕証寺 と本末 (本寺と末寺) をめぐる争いを起こしていたが、本寺に対して隠してはおけない理由があって1、ついに東派 (真宗大谷派) の本廟に帰参した。この時に本寺から土地を授けられた。その土地とは平野郷の泥堂町にある迎春寺 (現 慧光寺) である。これによって貞亨四年 (1687年) 晩冬に萱振を退いて平野に移ってきた。ところが同院から与えられた土地は狭かったので、〔焼け跡となった〕了願寺の旧地を譲り渡してくれるよう願ったのであった。

また時を同じくして、京都の中島市兵衛という者が、〔この地に〕志をおこして新田を開いた。その時の当院の住職であった教西法師は、俗称は中島氏の子孫であった。こうした深い理由があって教西法師は、〔焼け跡となった平野の土地の譲り渡しの〕願いを受け入れ旧地を寄付させて、元禄元年寅の年 (1688年)、今述べた理由によって、ただちに旧跡を退きこの中島新田に移ってきたのであった。

しかしその頃はまだ〔中島新田は〕開発間もない新田であり、檀家などもいまだ得ることができなかったので、地主である中島氏から親属であるという理由で、ひとまず米三石六斗の寄進を受けた。このことによって以来、毎年毎年これを基準として長い年月の間〔この寄付米を〕怠ることはなかった。

ところが、後年理由があって地主を泉州の唐金屋新吾右衛門に譲ることになったのだが、それでもなお先の寄付米の寄進は前に述べたのと同様に変わることがなかった。それだけでなくさらに仏供として田等の寄付もなされた。このことによって、たとえこの地主が誰に譲られようとも、この寄付米の三石六斗は総高の内から直引されるところとなったのである。以来、それぞれの時代の地主はこの〔寄付米三石六斗の〕規定を取定めて、これに異義を申し立てることもなかったのであった。

さてこうして〔当院了願寺は〕その昔に真言宗から出て、浄土真宗に入り、以後当派の末学として関連を持ち続け相続してきた。かつて住吉にあった当院は守り神として春日明神をあがめていた。その五尺四方の場所は今現在でも恵光寺の境内に残っている。これはまさに旧跡を示す証拠である。法会の場を絶やさず伝えて、この上ない仏法の味をあじわって、年々日毎に隨喜を伴った深い信心をもって仏に帰敬し、檀家の数も増えていった。こうして〔この中島という地で〕仏法の火影はあかあかと照らされ、清流の波〔のように清い心を持ったこの地の人たち〕は輝いているである。

大阪府全志巻之三

了願寺は字秋山二の割にあり、照海山と号し、真宗東本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。延元二年 (1337) 阿間了願の開基なり。もと住吉郡平野郷泥堂町 (大阪市平野区平野元町) にありて天台宗なりしが、真宗に転じ元和 (1615~24) の兵燹に罹りて荒廃せしを、元禄元年 (1688) 丁字屋市兵衛本地開発のとき、その寺号を譲り受け、独力を以て再興し、教西を講じて中興の祖とせり。

参考

Footnotes:

1 原文「本寺に対し伏せざるの儀」であるが具体的には書かれていない。恵光寺 の説明によると「恵光寺第七世寂永法師の時分、恵光寺は存続の転機をむかえる。1685年(貞享2)、諸々の事情あって(一説には久宝寺御坊顕証寺寂淳との宝物争いによる)、寂永法師は前住職 准良法師と共に東派に転じ、摂津国平野郡来春寺を改め大徳山慧光寺と号した。またこのとき、ほとんどの寺宝が平野に渡る。 無住寺院となった萱振御坊恵光寺であるが、その後懸所(別院)となる」とあり、宝物争いの説が紹介されている。